July 29, 2026

【おすすめ】L’Arc〜en〜Ciel(ラルクアンシエル)オレ的名曲・神曲ランキングTOP50 同じ穴の貉 たゆすとのゲーム・アニメブログ

L’Arc〜en〜Ciel (ラルクアンシエル)、通称「ラルク」はデビューから30年以上日本の音楽シーンを席巻し続ける、伝説の4人組ロックバンド。 メンバー全員が作曲を手掛ける高い音楽性を持ち、独特な世界観の名曲、ヒット曲を数多くリリースしています。. L’Arc-en-Ciel(ラルク)のシングルを発売順・年代順に一覧化。曲名を順番に確認したい方に便利なシンプルなリストです。

L’Arc〜en〜Ciel(ラルク アン シエル)は、日本の4人組ロックバンド。通称・略称は、主に「ラルク」が用いられている。

概略

1991年にtetsuya(Ba.)を中心に結成。現在バンドに在籍するメンバーはtetsuyaを含め、hyde(Vo.)、ken(Gt.)、yukihiro(Dr.)の4名。過去にはhiro(Gt.)、pero(Dr.)、sakura(Dr.)がメンバーとして参加していた(hiro、peroはメジャーデビュー前に在籍)。バンド名はフランス語で”虹”を表しており、tetsuyaにより名付けられている。

1993年に発表した1stアルバム『DUNE』がインディーズチャートで首位を獲得するなど、インディーズシーンで絶大な人気を獲得し、1994年7月にビデオシングル『眠りによせて」でメジャーデビューを果たす。1990年代は「flower」「虹」「winter fall」「HONEY」「花葬」「snow drop」「Driver’s High」などの楽曲でヒットを記録し、2000年代・2010年代には「NEO UNIVERSE」「READY STEADY GO」「叙情詩」「MY HEART DRAWS A DREAM」「DAYBREAK’S BELL」「DRINK IT DOWN」「X X X」などでチャート首位を獲得。そして現在までに、計12作品のスタジオ・アルバムを発表している。

楽曲は、バンド活動の最初期の頃に、メンバーがルーツとする1980年代のニューウェイヴやポストパンクからの影響を感じるものが多く発表されている。そして活動を進めるにつれて、グランジやオルタナティヴ・ロックなど、様々な時代の刺激的なサウンドを吸収し、多彩なアレンジを施した独創的なポップ・ミュージックを手掛けるようになっている。また、メンバー4人全員がメインコンポーザーとして作曲を手掛け、多様な方向性のアプローチにつなげている点も、バンドの大きな特徴のひとつとなっている。

1990年代後半以降の活動では、スタジアムクラスの会場で頻繁にライブを行うようになっている。1999年には野外特設会場をまわる全12公演のツアーで65万人を動員、2000年には4大ドームツアーを敢行。さらに2014年には、国立競技場(現:旧国立競技場)の最多収容人数記録となる8万人(2日間計16万人)を集めた公演を開催している。近年は、各メンバーのソロ活動もしくは別バンドでの活動と並行しつつ、日本国外でもライブを行っており、これまでにソウル、台北、上海、香港、シンガポール、バンコク、ジャカルタ、パリ、ロンドン、ホノルル、ボルチモア、ニューヨークといった都市で公演を行っている。なお、2012年にはニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンで、日本人アーティストとして初めて同所での単独公演を開催している。

マネジメントはMAVERICKが担当。レコード会社はソニー・ミュージックレーベルズの社内レーベル、Ki/oon Musicに所属している。

公式ファンクラブ名はフランス語で”空”を意味する「LE-CIEL」(1995年設立、デジタル版は2021年設立)。公式モバイルサイト名は「L’mobile」(2009年設立)。

メンバー

現メンバー

過去に在籍したメンバー

ライブサポート

時系列

経歴

1991年:L’Arc〜en〜Ciel結成

1990年前後、大阪の有名レコード店(ワルツ堂)でアルバイトをしていたtetsuyaはバンドを組むべくメンバー探しを行っていた。そのような中でtetsuyaは、アルバイト先で当時大阪のシーンで有名だったバンド、BILLY & THE SLUTSのボーカルであるSAMMYと知り合う。そして、SAMMYから「いいギターがいる」と、L’Arc〜en〜Ciel結成メンバーとなるhiroを紹介される。その後tetsuyaは、hiroと2人でバンドを結成する方向で動いていたが、形にならず終わってしまう。このあともメンバーを探すため頻繁にライブハウスを訪れていたtetsuyaは、とあるギタリストに「今度スタジオで音を出そうと思ってる、ちょうどベースがいないから合わせてみる?」と誘われセッションに参加する。そこで、L’Arc〜en〜Cielの結成メンバーとなるhydeとperoに出会う。

一方、hydeもtetsuyaと同様に、バンドを組むべく大阪でメンバー探しを行っていたという。そして、Kiddy Bombsというバンドと知り合い、同バンドのドラマーであるperoと交流を持つようになる。その後、Kiddy Bombsがボーカル脱退に伴い解散状態となり、peroはhydeに「一緒にバンドやろう」と声をかける。こうしてhydeとpero、さらにKiddy Bombsのギタリストとベーシストを加えた4人は、新たなバンド、Jelsarem’s Rodを結成する。そして結成してすぐに、ベーシスト以外の3人は、tetsuyaも参加した前述のセッションに赴いたという。

tetsuyaは2010年に発表された書籍のインタビューの中で、セッションを振り返り「課題曲を決めておいて、セッションで何曲か合わせて…お互いに様子見ですよね、お見合いみたいな。peroとhydeは一緒にバンドをやってて、僕は僕で、別のところで、hiroとふたりでメンバーを探してたんですよ」と述懐している。また、hydeは2012年に発表した自叙伝の中で「当時はJelsarem’s Rodを作ったばかりだったから、他のバンドには興味が持てなくて。peroが”行こうよ”って言うから行ったけど、ひと通り演奏して帰ったっていう感じだったね。まあ、”上手だな〜””うちのバンドとは全然違うな〜”とは思ったけど」と述懐している。そして、このセッションでhydeとperoと出会ったtetsuyaは、L’Arc〜en〜Ciel結成に向け、大きな一歩を踏み出すことにする。

というのも、tetsuyaはhydeとperoと出会った際に、”hyde、pero、hiro、自分で全部がつながった”、”すごいバンドになる”と直感的に感じたという。そのため、tetsuyaは「自分とバンドを組まないか」とhyde、peroの2人に打診する。ただ、前述の通り「Jelsarem’s Rodを結成したばかりだから」という理由でhydeに断られてしまう。それでも諦め切れなかったtetsuyaは、Jelsarem’s Rodのライブに足繁く通い、hydeとperoを口説き続けたという。この当時のtetsuyaの熱烈な勧誘を振り返り、hydeは「その時(セッションの時)にtetsuyaは俺らに目をつけてたみたいで。それから、毎回、俺らのバンドのライブに来てくれるようになって、打ち上げにも来たし電話もあったんだけど、”どう?バンド、調子ええ?”って聞くから”うん、調子ええよ”って言うと、”そっか”って残念そうにしてたな(笑)」と述べている。また、後年tetsuyaは当時の自身の行動について「ちょっと今では考えられない(笑)。当時はもっとおしゃべり、おしゃべりじゃないな、積極的な少年やって」と振り返っている。なお、peroはtetsuyaの誘いに乗り気だったようで、tetsuya曰く「”hydeがOKしたら俺はいつでも行くよ”的なことを言ってた」という。

止めどないラヴ・コールを受け続けたhydeは、Jelsarem’s Rodの先行きが見えなかったこともあり、tetsuyaと一度セッションすることを決意する。そして1991年2月頃、兵庫県西宮北口駅のスタジオにてhyde、tetsuya、peroに、tetsuyaと共にバンドメンバーを探していたhiroを加えた4人でセッションを行う。このセッションを通じ「やっぱり自分たちのバンドとは全然クオリティーが違う」と感じたhydeは、tetsuyaからの誘いに「一緒にやろう」と返答し、Jelsarem’s Rodを解散させ新たなバンドを結成することを決断する。なお、後年hydeは、Jelsarem’s Rodの解散を決めたときを振り返り「そうこうしてるうちに、俺らのバンド(Jelsarem’s Rod)もすごく行き詰ってきて。毎回、ギターソロは、スケールが外れてるし(笑)。友達としては大好きだったんだけど、バンドとしてこれでは無理だと気がついて来たんだ。その後、Jelsarem’s Rodの解散を切り出す事になるんだけど、とてもつらかったのを覚えてる」と綴っている。

こういった紆余曲折があり、hyde(結成当時のアーティスト名義は”hide”)(ボーカル)、hiro (ギター)、tetsuya(結成当時のアーティスト名義は”tetsu”)(ベース)、pero (ドラムス)の4名から成るロックバンド、L’Arc〜en〜Cielが結成された。結成した段階ではバンドにリーダーはいなかったが、hydeの推薦によりtetsuyaがリーダーになっている。hydeは2012年に発表した自叙伝の中で、tetsuyaをリーダーにしようと考えた経緯について「先導が誰かを決める必要があったんだと思う。本人が”リーダーになる”って言えないだろうから”tetsuyaがリーダーに相応しいと思う”って言ったんだよ。tetsuyaは当時からしっかり者だったからね」と述べている。

なお、L’Arc〜en〜Cielは結成後3回にわたりメンバーの脱退・加入が繰り返されているが、新加入したメンバーはいずれもバンドの発起人であるtetsuyaの知り合い、もしくは直接知り合っていないながら奇しくもバンド結成の流れの中に居合わせていた人物となっている。例えば、hiroと入れ替わるかたちで1992年に加入したギタリストのkenは、tetsuyaとバンドを組んでいたことがあった幼馴染で、客としてL’Arc〜en〜Cielを観たこともあった。そして、peroと入れ替わるかたちで1993年に加入したsakuraは、tetsuyaがバイトしていたレコード店に訪れたロックバンド、DEAD ENDでドラムを担当していた湊雅史のローディーを務めており、tetsuyaと直接知り合っていないものの、アルバイト先に赴いていたことがあった。そして、sakura脱退後の1998年に加入したyukihiroは、当時ZI:KILLのドラマーを務めており、tetsuyaがhydeとperoの2人と出会った最初のセッションに招待したギタリストとライブハウスで接触した当日に、奇しくもそこでライブをしていたという。

以上のように、L’Arc〜en〜Cielは結成メンバー4人、そしてのちに加入するメンバー3人、合わせて計7人によって歴史が紡がれていくことになる。なお、L’Arc〜en〜Cielというバンド名は、後述のバンド名の由来にあるように、フランス語で大気光学現象のひとつである「虹」を意味している。そして虹の色数は、日本では一般的に「7色」とされており、これは奇しくも「L’Arc〜en〜Cielに在籍したメンバーの数」と一致する。tetsuyaは2006年に受けた音楽雑誌のインタビューの中で、この偶然の一致について「今までのラルクのメンバーって7人いるんですよ。なんかそれも運命かなぁって。誰ひとり欠けても今のラルクはない」と述べている。ちなみにアーティストが自身のメモリアルイヤーを定める際、メジャーデビュー年を起点に算出するミュージシャンと、結成年・活動開始年を起点に算出するミュージシャンの2パターンに分かれることが多いが、L’Arc〜en〜Cielは後者の”結成年”を基準にしていることが多い。L’Arc〜en〜Cielの場合、結成年を基準にすることにより、結成メンバー4人でアマチュアバンドとして活動していた時期も年数に含めることができるが、このことが”結成年”を基準にしている理由かどうかは定かでない。

バンド名は、結成時にオリジナルメンバー4人が各々で、様々な案を考えたという。結果的にtetsuyaが提案した、フランス語で「虹(=空に架かる橋)」を意味する『arc-en-ciel』を由来とした「L’Arc〜en〜Ciel(カナ表記ではラルク アン シエル)」(フランス語発音: [laʀkɑ̃sjɛl] ラルコンスィエル、ラフコンスィエル)という言葉がバンド名に採用されている。なお、バンド名はそのときのデザインによって「L’Arc-en-Ciel」という表記で記載される場合もある。

tetsuya曰く「L’Arc〜en〜Ciel」というワードは、当時本屋などをまわり、様々な資料をもとにバンド名に適した言葉を探していたときに、たまたま見つけた言葉だったという。tetsuyaは2011年に受けた音楽雑誌のインタビューの中で、この言葉を見つけた経緯について「当時はインターネットとかなかったので、本屋さんとかでいろんな資料を見たんですが、その中にこのフランス語の言葉があった。意味は虹ですけど、分割すると、天空にかかる橋。見た目もいいし、響きもいい。音楽でいろんな色を表現するというところでも合うなと。長くて、覚えにくいものではあるけれど、ローマ字で表記したときにインパクトがあると思ったんです」「(この言葉には)洋服のブランドみたいな雰囲気もあって、いいかなって」と語っている。なお、hydeは2012年にアメリカの経済雑誌『フォーブス』の取材を受けた際に、バンド名の由来について「名前を付けようと思ったときに、英語の単語はもう全部他のバンドに使われていたから新鮮だったフランス語にした」「特に最初意味はなかったんだけど、今のバンドの音楽性が多彩なので、それを上手く表している名前だな、と僕たちも思う」と述べている。

ちなみに、結成当初に作られたL’Arc〜en〜Cielのバンドロゴやチラシは、hydeの手で制作されている。なお、hydeは画家や漫画家、デザイナーといった職業に憧れ「絵の道に進もう」と考えていたことから、かつてデザイナー学校に通っていた経歴がある。

1995年2月1日にはバンドの公式ファンクラブ「Ciel」が設立されている。それから約5年後の2000年4月21日には、名称が「LE-CIEL」に変更されている。公式ファンクラブの名称は、フランス語で「空」という意味を持つ『ciel』が由来となっており、この名称には「ファンとバンドが”空”と”虹”のような関係でいれたら」というL’Arc〜en〜Cielの想いが込められている。

余談だが、バンド名の由来に関し「tetsuyaが阪急梅田三番街にあった喫茶店の名前を気に入り、そこから取った」という根も葉もない噂が世間で流布されたことがあった。この説は、バンドの名付け親であるtetsuya本人の口から何度も明確に否定されている。tetsuyaは音楽雑誌『WHAT’s IN?』2011年2月号でのインタビューの中で、このデマについて「梅田に同じ表記の喫茶店があって、そこからとったという説がずーっとWikipediaに書かれてたんですよ。でもまったく関係ないです。冷静に考えてみてくださいよ、喫茶店の名前からバンド名をとるわけないじゃないですか!?」と述べている。

新たに結成されたバンド、L’Arc〜en〜Cielは1991年5月30日に難波ロケッツでファーストライブを開催する。このライブはいわゆる対バン形式だったが、100人以上の動員を記録。そして、同年9月27日に同所でL’Arc〜en〜Cielとして初のワンマンライブを行い、300人以上の観客を集めている。こうしてL’Arc〜en〜Cielは、結成して間もなく軌道に乗り始め、大阪を中心に様々な活動を展開していくことになる。なお、L’Arc〜en〜Cielが結成当初から一定の人気を獲得できていたのは、hyde曰く、hiroが以前組んでいたバンドで名を知られていたことや、tetsuyaの考えたプロモーション・イメージ戦略によるところが大きいという。

後年hydeは2012年に発表した自叙伝の中で、結成当時のL’Arc〜en〜Cielの活動を振り返り「面白かったのは、L’Arc〜en〜Cielって最初から戦略的だった事。俺なんかは、いいライブさえやっていれば、いつかそれが人目に付いて、動員が増えてプロになれるんじゃないかな?くらいに考えてたんだけど、L’Arc〜en〜Cielはとても戦略的で、tetsuyaはもう既に大勢の人の名簿を持っていて、それを元にダイレクトメールを送ったり、ギターのhiroは、元々ちょっと名前の知れた子だったから、その子が復活するってだけでも話題になったり、最初のライブは150人だったかな?ちょっと普通ではありえないような動員があったね」と綴っている。また、後年tetsuyaは「今だと個人情報保護とかでダメだと思うんですけど、当時僕がアルバイトしていたレコード店にあるお客さんのリストを使って、ライブ開催のダイレクトメールを送ったりしてましたね」と当時を振り返っている。

その後L’Arc〜en〜Cielは、この当時のアマチュアバンドが行っていたありがちな活動とは逆の戦略を展開し始める。この当時のアマチュアバンドの多くは、手作りのデモテープを販売することで活動資金を集め、それをもとに様々な地域でツアーと称し、長期的なライブ活動を行うことが定番になっていた。こういったバンドが溢れる中、活動最初期の頃のL’Arc〜en〜Cielはデモテープの販売を避け、あえて大阪からあまり動かず、先々のライブ予定も発表しないスタンスをとっていた。この当時の活動方針について、tetsuyaは「当時ね、周りの同じようなバンドはライブをいっぱいやってたんですよ。数をこなす、みたいな。月に2〜3回はライブやって、それこそツアーで全国を回るとか。でも僕らは月1回に絞って、それ以上はやらない、ツアーもやらない。で、大阪に観に来てもらう、東京からでも来てもらう…ぐらいの気持ちでやってました。ライブの本数をあえて絞りましたね」「他のバンドは先々のスケジュールまで発表しちゃうんですけど、そうじゃなくて、次のライブは観に来た人に伝える。ライブに来て初めて、次のライブをいつどこでやるのかわかる。逆に、来ないとわからない。次はいつ観られるかわからないっていう状況をあえて作りましたね」と語っている。このようにライブの開催数を減らし、長期のライブスケジュールを発表しない戦略をとったことによって、口コミが喚起され、動員数が増加していったとtetsuyaは当時を述懐している。なお、ライブを行った際は、メンバー主導で音楽雑誌編集者に対し、公演の模様や動員数などの情報を送り、より外に話題を広げていくためのプロモーション施策を行っていたという。後年hydeは、こういったバンドを広める戦略について「バンドがたくさん居る東京に行くよりも、大阪で一番になったほうが目立つだろうっていう、tetsuyaの考え方もすごく賢いと思ったし。実際その通りになった」と述懐している。

あえてデモテープを販売しなかった背景には、「ライブに来ないと(曲を)聴けない」「自分たちが納得できるタイミングで音源を出したい」というtetsuyaなりの考えがあったという。そのため、L’Arc〜en〜Cielは結成してすぐに、レーベルからの勧誘あるいはデモテープ販売の催促があったにもかかわらず、それらすべてを断っていた。tetsuyaは、2011年に受けたインタビューで「インディーズバンドに群がる大人っていっぱいいるんですよ、今も昔も。ライブハウスでちょっと動員があると聞くと、すぐ飛んできて”うちでやらないか”って声をかけてくる、金儲けを考える大人たちがたくさんいる。俺らのとこにもいっぱい来ました。自分たち的にはタイミングとしてまだ何も出したくなかったので、メジャーから話が来ても断っていました」と語っている。

他にも、この当時のアマチュアバンドの中には、観客との距離を詰め、ライブの打ち上げに客を参加させるバンドも多く存在していたが、L’Arc〜en〜Cielはこういったファンとの過度なコミュニケーションを一切行わないようにしていた。また、tetsuya曰く、ブランディングの観点から、メンバーが自作したライブのチラシやフライヤーを直接配布する行為をしないようにしたり、会場に出入りする観客の前でメンバーが演奏機材を運搬するといった行動を避けるため、結成当初からローディーやスタッフを雇っていたという。こういったイメージ作りについて、後年tetsuyaは、2022年に公開された自身がパーソナリティを務めるインターネットラジオ番組で「ブランディングとして人気があるように見せた、最初から」「ラルクとして機材を自分達で(会場に)運んだなんてことは歴史上ない」「売れる前から徹底してやってたんですよ。”勘違いしてる”と言われようと」と述べている。

上記のような頭を使った戦略をとったことで、L’Arc〜en〜Cielは結成してすぐにワンマンライブで観客を埋めることができ、先輩バンドに頼み込んで前座でライブに出させてもらったり、全国を行脚して対バンライブで知名度を上げていくといった施策を行わなくて済んだため、当時のバンドの滑り出しとしては、稀に見る順風満帆な始まり方となった。そのため、tetsuyaは当時について「L’Arc〜en〜Cielって、苦労してないんですよ(笑)」と冗談交じりで述懐している。また、tetsuyaは当時の活動方針について「やるべきことはやったんですよ?やるべきことはやったけど、無駄な努力はあまりしてないっていうか、ムダな下積みは。努力って、的を射た努力しないと意味がないと思ってて。なんかがむしゃらに頑張っても、意味のない努力をいくら頑張っても結果出ないじゃないですか。だからちゃんと目標を決めて、どこに向かいたいのか、どうしたいのか、そのための努力は何なのか、っていうのを考えて、そのためのやるべきことをやってきた。それをやっただけですよ」と語っている。さらにtetsuyaは、結成当初に対バンライブをあまり行わなかったことについて「対バンで3バンド、4バンド一緒にライブやるのとか、そういうことは本当にしたくないなって思ってたんで、僕が、個人的に。(対バンライブで他のバンドのファンがこちらに興味を持つといった)そういう戦略もあると思うんですけど、僕はそれを当時は取りたくなかったんですよ。やっぱり3バンドも4バンドも出てたら、ゴチャゴチャじゃないですか、楽屋まわり。そういうのがイヤだったんでしょうね。だからホントにワンマンがやりたかったんですよ、それこそ最初から。最初からワンマンでやれるバンドにしたくて。で、本当に最初の数回ですよ、対バンでやったの」と述べている。

上記にあるように、L’Arc〜en〜Cielは当時のアマチュアの中では珍しく、あまり対バンライブを行わない”群れないバンド”であったが、数少ない対バン相手としてロックバンド、黒夢がいた。tetsuyaは「黒夢(との対バン)はお互いにメリットがあったというか。黒夢は黒夢で、もうある程度の立ち位置にいて、固定のファンもある程度いて。黒夢にとってもラルクにとっても…お互いがハッピーになるような感じだったから、”対バンしよう”って言う話になったんです」と述べている。ちなみにtetsuyaは2022年に、自身がパーソナリティを務めるラジオ番組で、「L’Arc〜en〜Cielのライバルバンドは?」と聞かれ、「我々の一番のライバルは黒夢」と答えている。なお、黒夢の中でも特にボーカルの清春は、L’Arc〜en〜Cielの現メンバーのほとんどと現在でも交流があり、お互いがメジャーデビューした後もライブイベントや楽曲制作の場で共演している。

1992年 – 1997年:『DUNE』『Tierra』『heavenly』『True』

1992年3月に大阪・東京でオリジナルビデオ『L’Arc-en-Ciel』のプレゼントライブを行い、関東地方にも活動拠点を広げるが、同年6月12日の公演をもってギタリストのhiroが脱退することとなる。後任にはtetsuyaの幼馴染で、当時名古屋工業大学で建築学を専攻していた大学生のkenが加入する。そしてken加入直後からNight Gallery Recordsと契約し、初のアルバム作品のレコーディングを開始する。

1992年10月に、アルバムレコーディングの中で制作された楽曲「VOICE」をオムニバスアルバム『Gimmick』にバンド初の音源として提供する。その後アルバムが完成するが、出来映えに不満を持っていたメンバーはリリースを取り下げることにしている。しかし、レーベル側から「メンバーの意向に関わらず、所有している原盤権を行使しアルバムをリリースする」「発売を中止する場合、L’Arc〜en〜Cielがレコーディングに費やした制作費を全額支払うように」と回答があり、交渉が難航してしまう。この問題をtetsuyaから聞いたDanger Crue Recordsの代表の大石征裕(現:マーヴェリック・ディー・シー・グループ代表)は、知り合いだったNight Gallery Recordsの社長、森田文章(DENDO MARIONETTE)とコンタクトをとる。そして大石と森田の交渉の結果、「レコーディングにかかった経費をDanger Crue Recordsが負担することで、原盤権をDanger Crue Recordsに譲渡する」ことが決まった。その後、原盤権を手にした大石はL’Arc〜en〜Cielの意を汲み、シングル化が決まり事前予約も終わっていた「Floods of tears」と「夜想花」の2曲を除き、アルバムの音源をすべて廃棄することにしている。

トラブルが収まった直後、1992年12月30日にドラマーのperoが脱退することになる。そして1993年1月16日付けで、様々なロックバンドやキャバレーの箱バンドでセッションドラマーとして音楽活動をしていたsakuraが新たに加入。1993年1月28日からDanger Crue Recordsと連携し、改めて1stアルバムの制作に取り掛かる。

1993年4月に1stアルバム『DUNE』を発表。この作品にはL’Arc〜en〜Cielのメンバー4人のルーツミュージックの要素が色濃く反映されており、ニュー・ウェイヴやポスト・パンク、プログレッシブ・ロック、ゴシック・ロックの他、4人が好むバンド、DEAD ENDからの影響が随所にみられるものになっている。なお、L’Arc〜en〜Cielの詳細を綴った当時の紙資料には「ニュー・ウェーブ・バンド」という紹介文が書かれていた。この紹介文はtetsuyaが考えたもので、後年tetsuyaは経緯について「当時、音楽のジャンルっていうと、ロック、パンク、ニューウェーブくらいしか言葉が思いつかなかった」と述懐している。そしてこのアルバムは、自身初の一般流通作品でありながら、同年5月10日付のオリコン週間インディーズアルバムチャートで首位を獲得する。このアルバムの発表をもって、L’Arc〜en〜Cielはインディーズシーンでの人気を証明し、メジャーレーベルからの契約提示を受け、活動がより大規模になっていくこととなる。

L’Arc〜en〜Cielは1993年6月から、バンド初の日本全国をまわるライブツアー「Close by DUNE」を開催。このツアー中、ソニー・ミュージックの社員が観賞のためライブに訪れており、これがきっかけとなり1993年の夏頃にソニー・ミュージックの社内レーベル、Ki/oon Sony Music(現:Ki/oon Music)と契約を結ぶ。契約内容はかなりの好条件だったようで、”7枚のアルバムリリース”と”契約年数無期限”が提示されている。後年tetsuyaは、キューンソニーと手を組みたいと思った理由について「キューンって当時まだ新しいレーベルだったんですよね。スタッフも若いし、考え方も若い」と語っている。なお、所属事務所代表の大石征裕は「当時のソニーはメジャー志向のアーティストを続々とヒットさせていて、当時はサブカルチャー寄りだったラルクに興味を持ってくれるか最初は不安だった」と当時を述懐している。

こうして1994年7月1日に、メジャーデビュー作品となるビデオシングル『眠りによせて』を発表する。この曲はボサノヴァテイストのアレンジに歪んだギターサウンドをのせた楽曲となっており、当時の日本のメジャーシーンで鳴るロックと一線を画したような仕上がりになっている。そして約2週間後に、2ndアルバム『Tierra』を発表する。なお、このアルバムにはメンバー4人それぞれがコンポーザーを務めた楽曲が収録されており、ボサノヴァやラテンなどロック以外の要素を含んだものが制作されている。アルバムのレコーディング・エンジニアを務めた比留間整は当時、L’Arc〜en〜Cielの印象について「最近の若いバンドとちょっと違う」と語っている。また、このアルバムの制作には比留間の他に、本田恭之(ex.GRASS VALLEY)や、かつて”YMO第4の男”と言われた松武秀樹らが参加している。tetsuyaはこのアルバム制作を振り返り「メジャーに行くとやりたいことができなくなるとか、あれもダメこれもダメとか言われるって話を聞いてたんですけど、な〜んにも言われなかったんですよ。本当にやりたいように、時間も自由に使えて、”いつまでに仕上げろ”とかも言われなかった」と述懐している。

なお、L’Arc〜en〜Cielは前記のビデオシングルとアルバムをリリースする際に、意図的に”メジャーデビュー”というワードを広告などに記載していない。また、この当時にメジャーレーベルと契約したロックバンドの中には、ひとつのお約束として、ライブ会場に集まった観客の前で大々的にメジャーデビューを発表するバンドがいたが、L’Arc〜en〜Cielはこのトレンドを嫌い、メジャーとの契約についてメンバーが口にすることを控えていた。そのため、アルバム『Tierra』は”メジャー1stアルバム”ではなく、”2ndアルバム”として発表されている。

アルバムを引っ提げ、1994年7月からライブツアー「Tour Sense of time ’94」を開催。同年12月には、メンバーそれぞれが主演・企画を担当した4つの短編映像を収めた異色のイメージビデオ集『Siesta 〜Film of Dreams〜』を発表する。

こうしてメジャーレーベルでの活動を本格的に開始したL’Arc〜en〜Cielだったが、同年8月27日に東京ベイNKホールにて行った前記ツアーの最終公演で、初めてチケットが多く売れ残る事態が発生してしまう。この出来事に加え、メジャーデビュー以降にメンバーの与り知らぬところで活動内容が決められたことがあったため、L’Arc〜en〜Cielは1994年の年末ごろにメンバー4人だけでデニーズに集まり、今後の活動方針を決めるミーティングを行うことにする。そしてこの会合を通じ「俺らは操り人形じゃないから、自分たちで決めてやろう」とメンバー同士で確認し合い、「1995年はライブを中心とした活動にシフトする」という方針を決め、バンド主導の活動に転換させる。

1995年9月には、前年にライブ開催に関するプロモーションが行えなかったことを踏まえ、プリプロダクションの時間を長めに取り、レコーディング期間の短縮化を目指し制作された3rdアルバム『heavenly』を発表する。この作品はセルフプロデュースで制作されており、バンド主体でアレンジ作業が行われている。なお、hydeはこの作品を「メンバーのアレンジ面での力が発揮できた第一弾」と表現している。アルバム発表後は、前年に決めた方針の通り、断続的にツアーを開催し1年間で35公演以上のライブを実施。同年12月には、自身初の日本武道館公演を開催する。なお、L’Arc〜en〜Cielはこの頃から音源のプロモーションのため、『ミュージックステーション』などのテレビの音楽番組に出演するようになる。後年hydeは、音楽番組出演を始めた経緯について「俺、正直言うと、そんなに売れっ子アーティストになりたかったわけでもなく。まさかテレビで歌うとかそこまで思ってなかったんですね。でも、いざこの世界に入ってきて、自分の芸術を表現したい時って、売れてないと出来ないことが多くて。そこでやっぱどんどん拍車がかかったんだと思う」と述懐している。

1996年を「じっくりアルバムを作る年」に位置付けていたL’Arc〜en〜Cielは、曲作り期間を経て、同年7月頃から合宿レコーディングを開始。そこで制作された楽曲「flower」「Lies and Truth」を先行シングルとしてリリースする。なお、ネオアコを彷彿とさせる楽曲「flower」を収めたシングルは累計30万枚以上を売り上げ、自身初のヒットを記録。そして同年12月に4thアルバム『True』を発表する。hyde曰く、アルバムを制作するにあたり「聴く人を包み込むようなサウンド」や「歌に持っていくための道具でない、洋楽のような引き込まれるイントロ」を作りたいという考えがあったといい、この当時はレディオヘッドやアトミック・スウィング、クランベリーズなどをよく聴いていたと語っている。

また、このアルバムでは当時の日本のメジャーな音楽シーンを意識し、メロディ指向で制作するアプローチが取り入れられている。そして、総勢6人の共同プロデューサー兼アレンジャー(富樫春生、岡野ハジメ、秦野猛行、小西貴雄、西平彰、佐久間正英)を制作に招聘している。なお、マスに届くようなポップスを意識した楽曲の制作に舵を切った背景には、前2作のセールスが思ったよりも伸びなかったことがあげられる。後年kenは、アルバムの制作を振り返り「売れないねっていう声がちらほら聞こえるわけですよね。その時は今よりもっと比率として自分の曲が多かったんですね。で、まあ曲悪いんだって思うわけですよ、自分の。悪いんだっていうより、自分が聴いてきた音楽は全然100万枚ヒットのものじゃないし、チャートを聴いてたわけでもなかったから、”そりゃ売れねえの作ってるよ、俺は”って思ったんですね。アレンジにしても。じゃあ売るの作りましょうかっていうんで『True』を作った気分」と述懐している。ちなみにkenは、自身が目指すポップについて「下世話ではダメだという気はしますね。下世話になると、何年後かに聴いてもつまらなくなると想う」と述べている。こうしてメロディ指向で制作されたアルバムは、発売6週目で自身初のオリコン週間アルバムチャート首位を獲得。その後も110週にわたりチャートインし続け、最終的に自身初のミリオンセラーを達成するに至っている。

アリーナ規模のライブを行えるほどに動員数が拡大していったL’Arc〜en〜Cielだったが、1997年2月にsakuraが覚醒剤取締法で逮捕されてしまい活動休止状態となる。この間に残りのメンバー3人とスタッフ数名は、リフレッシュのため渡英する。このときメンバーはイギリス・ロンドンで、様々なライブを鑑賞したりクラブに出かけていたという。シングル制作のため一旦日本に戻るも、ミュージック・ビデオの撮影も兼ねてサポートドラマーとして招聘したyukihiro(ex.DIE IN CRIES、ex.ZI:KILL)とともに再度渡英。さらにドイツを巡るなど、数週間の間ヨーロッパに滞在する。

そしてL’Arc〜en〜Cielは、1997年10月に3人体制で活動を再開。同月に発表された、バンド名の日本語訳を冠したシングル『虹』は累計70万枚以上を売り上げ、当時の自己最高売上を記録する。同年11月4日にはsakuraが正式に脱退することが発表され、yukihiroを迎えてニューアルバムの制作と、変名バンド”the Zombies”としてのライブ活動を進めていく。

1997年12月には、L’Arc〜en〜Ciel名義として約11ヶ月ぶりとなるライブ「1997 REINCARNATION」を開催。このライブはL’Arc〜en〜Cielが東京ドームで実施する初めての公演であり、セットリストには多くの新曲が組み込まれた。なお、公演のキャッチコピーには、表立った活動を本格的に再開することを告げるように、会場となった東京ドームの当時の愛称「BIG EGG(ビッグエッグ)」にちなみ、<大きなあたたかいたまごから僕たちはもう一度生まれた>というフレーズがつけられた。また、ライブタイトルの「REINCARNATION」は日本語で「転生」を意味しており、前述のキャッチコピーを内包する意図でつけられている。

この復活ライブは当初別の会場で予定されていたが、tetsuyaの考えにより、東京ドームで行われることになったという。後年tetsuyaはこの公演を振り返り「賭けだった」と述べており、「同じような会場で同じようなことをやっても、ラルクはもうダメになっちゃったと思われるんじゃないかって、だから絶対に良くなったって思わせたかった」と語っている。そして会場を変更した結果、この公演のチケットは4分で完売し、同会場における当時の最速完売を記録している。

1998年 – 2002年:『HEART』『ark』『ray』『REAL』

復活ライブを終えたL’Arc〜en〜Cielは、1998年1月1日にyukihiroを正式メンバーとして迎えることを発表。加入直後にシングル『winter fall』を発表し、自身初のオリコン週間シングルチャート首位を獲得する。そして翌月には5thアルバム『HEART』を発表する。この作品は、前作のレコーディングに参加した岡野ハジメ(ex.PINK)が本格的に共同プロデューサーとして携わった最初のアルバムとなっている。また、この頃からkenがギタープレイの中でザクザクとしたサウンドも多く扱うようになったことから、以前と比べグランジ色の強い音楽性に変化している。なお、kenは「こんな時期に枚数のこと言う人もいない」という理由から、このアルバムの制作では前作『True』で採った制作手法をあえて採らなかったという。さらにドラマーが、緻密かつタイトでマシーン・ビートとの同期も好んだドラムプレイが特徴的なyukihiroに代わったことにより、バンドサウンドも大きく変化している。そしてこのアルバムは、アジア各国でアルバムの海賊盤が多数出回り始めたことや、海外からの要望が高まったことを受け、日本の他、台湾、香港、タイ、マレーシア、シンガポールの6つのアジアの国と地域でリリースされることとなり、結果的にこれがL’Arc〜en〜Cielにとって海外展開の第一歩になった。なお、この作品以降のアルバムはアジアを中心に海外でもリリースされている。

1998年5月から、yukihiro正式加入後の初のツアーとして、自己最長となる日本全国45都市56公演にも及ぶホールツアー「Tour’98 ハートに火をつけろ!」を開催。このツアーの前にはシングル『DIVE TO BLUE』、さらにツアーと並行し、『HONEY』『花葬』『浸食 〜lose control〜』のシングル3作を同日に発表。同年10月には『snow drop』『forbidden lover』のシングル2作を2週連続発売し、オリコンチャート史上初の2度目の週間シングルチャート1位・2位の独占を達成。こうして1998年にリリースしたシングル7作はいずれもオリコン年間シングルランキングTOP30に入り、ビッグセールスを記録することになる。

後年tetsuyaは、1998年の怒涛のリリースと長期ツアー開催を振り返り「sakuraとの時代に4枚のアルバムを出してるんで、早く、1曲でも多く、yukihiroとの曲を増やしたいなっていう気持ちがどこかにあったと思うんですよね。『HEART』を出したあとに「Tour ’98 ハートに火をつけろ!」っていうツアーをやったんですけど、いまだにラルクの最大規模のツアーなんですよ。1回でも多くファンの前に出て新しい4人の印象を植え付けたかった」と述べている。ちなみに前記の”シングル3作同時発売”はスタッフの発案によるものだが、”2週連続シングル発売”はtetsuyaの発案によるものだったという。なお、hydeはこの当時に受けた音楽誌のインタビューの中で、ダークな変拍子の曲を含めたシングル3作同時発売に関し「ちょっとマニアックだと思うんやけど、この時期にこういうことをするのがいいと思う。今までだと、ただ単にロック・バンドがアンダーグラウンドな曲を出して、売れもせずにそのまま消えていくだけやと思うけど、今の状況だと街中にあふれる可能性がある。それがカッコいい」と語っていたことがある。

余談だが、この頃あたりから、当時交流がなかったにもかかわらず、メジャーデビューとヒットしたタイミングが同時期だったという理由のみで、ロックバンドのGLAYとよく比較されるようになる。tetsuyaは、音楽の嗜好が異なるGLAYと比較されていたことを当時から不思議に思っていたようで、2022年に「当時も今もそうだけど、ラルクとGLAYって全然違うじゃないですか、音楽性が。だからなんでそこで比較するんだろうなって思ってました」と語っている。また、hydeは後年に「そういう風(ライバル)に見られてますけど、特に(当時は)喋ったこともなくて」と述べている。なお、tetsuyaはL’Arc〜en〜Cielと同じくザ・キュアーやザ・スミスといった洋楽の影響を受けていたスピッツの名前をあげ、「音楽性で言ったら、僕はスピッツの方が近いと思ってた」とも述べている。ちなみに、この当時日本のポップシーンの中心にいた小室哲哉は、1998年に発行された雑誌『日経エンタテインメント!』の”L’Arc〜en〜Ciel、GLAY、LUNA SEAの3バンド特集企画”の中で、「演奏がうまいのはLUNA SEAですね。アルバムは3枚とも聴きました。音楽的な好みもあるんでしょうけど。でもラルクの方が売れることを気にせずに、思い切りやりたいことをやっているという印象を受けました。3バンドとも”オレたちは、媚びていない”という意味では同じなのでしょうが、中でもラルクがいちばん独創性がある。しかも”スキなことをやっている”風に見せながら、あれだけ売っているのは大したものだと思います。カリスマ性のようなものがあるのかな?と想像したりしています。(中略)GLAYはいい意味で(戦略などが)読めるんです」とそれぞれの印象の違いを綴っている。

1999年1月には、朝日新聞朝刊の一面に「本年もよろしくお願いします。L’Arc~en~Cielは、1999年ベストアルバムは出しません。オリジナルアルバムをお楽しみに」という年初の挨拶広告を出稿し、アルバムリリースを予告する。出稿の背景には、当時B’zやDREAMS COME TRUE、GLAYといったメジャーバンドが発表するヒット曲を集めたベストアルバムが商業的成功を収めていたことから、巷で「ラルクもベストアルバムを出すのでは?」と噂されていた経緯がある。こういった世間の予想を裏切るように、年初の広告の中でベストアルバムブームに乗らない姿勢を打ち出している。

1999年には前年からの流れを受け、アルバム制作を進めながら断続的なシングルリリースを敢行。同年4月には「HEAVEN’S DRIVE」、同年6月には「Pieces」をシングルとして発表する。そして同年7月に、6thアルバム『ark』と7thアルバム『ray』のアルバム2作をアジアの7つの国と地域で同時リリースする。このアルバム2作のタイトルは、<”箱船”に乗って”光”のあるほうへ向かおう>というコンセプトに由来している。なお、当時の日本では『ノストラダムス大予言』や、この予言を受けて出版された書物の影響により、「1999年7の月に人類が滅亡する」という「世紀末思想」が流行していた背景があり、これを踏まえノストラダムス大予言の日とされる1999年7月にアルバムが発表されている。ちなみにtetsuyaは、アルバム発表当時に受けた音楽雑誌のインタビューの中で「意識してるんじゃなくて、利用してるんです。世紀末思想っていうのを。俺たちはそれをマジメに信じてるわけでもなんでもなくて、ただ利用してるだけ」と語っている。

この同時発売されたアルバム2作は、初動売上枚数300万枚以上、トータルセールスで600万枚以上を売り上げ、オリコン歴代アルバムランキングTOP100に両作ともランクインするほどの大ヒットを記録している。なお、このアルバムからインダストリアルやトリップ・ホップ、シンセポップなどを好んでいたyukihiroがコンポーザーとしても制作に参加するようになり、バンドの音楽性の幅が更に広がっている。共同プロデューサーの岡野ハジメは後年に、このアルバム2作の印象について「非常にポップなアルバムではあると思いますけど、僕にとってはすごく実験的な側面も含んでて、マニアックとポップの両方が混在してる。それはこの時代、時期じゃないと出来なかったかもしれないですね。知らなかったからできたっていうところもあると思いますね。今だと”あれはよかったけど、これはよくなかったよね”みたいなことが分かっちゃうじゃないですか。そうするとこの勢いはなかったと思いますね」と述懐している。

なお、この時期のL’Arc〜en〜Cielは、様々なクリエイターをディレクションやプランナーとして起用したプロモーション施策を採っていた。そしてバラエティに富んだ広告展開を行うようになり、インテルのジングル「Intelbong」を手掛けたウォルター・ワーゾワ(ex.エーデルワイス)や、映画美術などを手掛けるアートディレクターのタナカノリユキが参加したテレビCMが制作されている。また、tetsuyaの「カッコいいことだけやるってカッコ悪い」「売れる売れないは関係ない。攻めろ」という考えもあってか、広告はアーティスティックなものに限らず、奇抜なものやシュールなものもリリースされている。例えば、テレビCMでは「バンド名『L’Arc〜en〜Ciel(ラルク アン シエル)』の正しい読み方を広く認知させるもの」や「記者会見風の『活動予定告知』の告知」、新聞広告では「新曲の着信メロディの作成方法」や「コンピュータグラフィックスで作成した”坊主頭のメンバーの写真”」といったものが制作され、多くの注目を集めた。さらにレーベルメイトであったユースケ・サンタマリアの他、藤原喜明や風間杜夫といったタレントを起用したコミカルな広告もリリースされている。この頃のL’Arc〜en〜Cielの広告ディレクションに携わった箭内道彦は後年に、当時の姿勢について「アンチで人を驚かせるようなものはマイナーな場所には山ほどあるが、それをメジャーシーンでやることに意義がある」「常に世の中やファンを裏切るような、次に何が出てくるかわからないような流れを作る」と語っている。また、当時L’Arc〜en〜Cielや電気グルーヴのA&Rを務めた中山道彦は後年に、この頃のラルクのプロモーションスタイルについて<メジャーで、アンチで、びっくり>と表現している。なお、後年hydeはこういった様々なメディアを活用した世間を手玉に取ったようなプロモーション戦略について「俺としては、世の中をなめた感じの表現の仕方は”ロックでカッコいいな”って思ってたけど、同時に”そこに芸術性はないな”とも思ってたね。だから、”おちゃらけた話題をどんどん出したり、リリースをするのはいいけど、芸術性を高めないと次がないんじゃないかな?”っていう不安が、ずっーとあった」と自叙伝に綴っている。

1999年7月からは自身初の野外ライブツアー「1999 GRAND CROSS TOUR」を日本6都市で開催。このツアーは「誰もコンサートをやっていないところでライブをやろう」というコンセプトから、既存のスタジアムを借りず、各会場で造成工事など行ったうえで特設ステージを設置する大掛かりなものになり、全12公演で65万人を動員する自己最大規模のものとなった。そして同年8月21日・22日に行われた東京国際展示場 駐車場特設ステージ公演では、L’Arc〜en〜Ciel史上最多動員数となる12万5千人(両日25万人)を動員したライブを敢行。22日公演では、スターTV・香港が立ち上げた中国およびアジアの有料テレビ音楽ネットワーク、channel Vで、自身初のアジア各国におけるコンサートの同時生放送を行い、各国合計の視聴者数で約1億人を記録する。なお、ツアータイトルの「グランドクロス」は1999年8月に実際に発生した惑星が十字に並ぶ特殊な天体現象を指しており、当時の世紀末不安も重なり「不吉の前兆」として流布されていた背景がある。ちなみにhydeはこのライブツアーで、タイトルを表現した”十字状のマイクスタンド”を携えてパフォーマンスを行っている。後年hydeはこのツアーを振り返り「どこの会場もそうだったんだけど、地平線がね、人の海だったんですよ。あれはもう、今でも忘れられない光景だね」と述懐している。

大規模野外ツアーを終えた後、1999年12月31日夜から2000年1月1日にかけてミレニアムカウントダウンライブ「RESET>>LIVE *000」を開催する。新年のカウントダウン直後に新曲として、資生堂「ピエヌ」CMソングに使われた、打ち込みを多用したエレクトロ・ポップ要素の強い楽曲「NEO UNIVERSE」を初披露し、全国各地の街頭に設置されたビジョンでその模様の生中継を行う。

2000年1月には前記の新曲と、映画『リング0 バースデイ』の主題歌に使用された「finale」などを収めた、メジャーレーベルでは自身初となる両A面シングル『NEO UNIVERSE/finale』を発表。同年初頭からアルバムレコーディングを開始し、同年7月にはミュージック・ビデオのダンスが話題を呼び音楽賞「SPACE SHOWER Music Video Awards 00 “BEST VIDEO OF THE YEAR”」を受賞した楽曲「STAY AWAY」を先行シングルでリリース。そして同年8月に、8thアルバム『REAL』を発表する。前作の反動からハードロックの要素の強い作品となり、これまでとセールス面では多少見劣りしたものの、アルバムとしては5作連続ミリオンセラーを記録した。このアルバムの制作では、前作の制作がシングルのプロモーション活動を挟みながらのレコーディングだったことを踏まえ、作業に集中するための期間が長く設けられている。また、このアルバムでは従来のL’Arc〜en〜Cielの音源と比べ、よりソリッドなサウンド作りが為されており、hydeは低音域中心の発声を主体とした”濁声”に近い歌声も使うようになっている。なお、kenはこのアルバム制作の時期には、ジェフ・バックリィやストーン・テンプル・パイロッツなどをよく聴いていたと述懐している。また、アルバム『REAL』の発表前には、リミックスアルバム『ectomorphed works』を発表している。このアルバムはyukihiroの単独プロデュース作品であり、全てのリミックスを同氏が手掛けている。なお、この作品はyukihiroが好むクラブ・ミュージックやマンチェスター・ムーブメントからの影響が色濃く反映されている。

2000年10月からはライブツアー「CLUB CIRCUIT 2000 REALIVE」を開催。前年の野外ライブツアーとは対照的に久々にライブハウスを巡るツアーとなったが、これはhydeの発案により開催が決まっている。後年hydeは開催経緯について「もっかいバンドの理想っていうのを求めたのが『REAL』に向かう時期」「自己破壊願望があったかもしんないですね、その時期」と述べている。その後同年11月から、自身初の4大ドームツアー「TOUR 2000 REAL」を開催。こうして一連のツアーを終えたL’Arc〜en〜Cielは、翌2001年3月にシングル表題曲の中から投票で収録曲を決めたベストアルバム『Clicked Singles Best 13』を発表。この頃に映画『FINAL FANTASY』の主題歌提供のオファーを受け、シングル『Spirit dreams inside -another dream-』の制作期間に入る。

このシングルのレコーディングを経て、メンバー4人はそれぞれソロ活動もしくは別バンドでの活動の期間に移行する。L’Arc〜en〜Cielは1998年から2001年の4年間で多くの作品を発表し、アルバム6作品・シングル5作品でミリオンヒットを記録、さらには3度のNHK紅白歌合戦出場の他、全日本有線放送大賞や日本レコード大賞優秀賞といった音楽賞、ファッション意識の向上に貢献した者に贈られるベストドレッサー賞、ゴールデン・アロー賞グランプリの受賞など、メジャーシーンで大きく飛躍していたため、隆盛を迎えた途端の活動休止となった。ただ、この頃のhydeはソロ活動に対するモチベーションが高まっていたようで、2012年に発表した自叙伝の中で「自分の感性を、L’Arc〜en〜Cielじゃない所で発揮したいという欲求が芽生えてきたんだよね。必ずしもバンドマジックを求めてる訳ではなくて、むしろ自分の芸術を総合した物を作ってみたくなったんだ」「お金がなくても、小さくてもいいから、自分の部屋が欲しいっていう時期が来たんだ」と当時の心境を綴っている。

ソロ活動が活発化しだした2002年、hydeはソロアルバム発表前にメンバー3人へ向けて「L’Arc〜en〜Cielから脱退したい」という旨の手紙を送る。hydeがこういった考えに至ったのは、2000年頃からバンドを取り巻く環境に閉塞感が生まれはじめ、打ち合わせでも沈黙の時間が延々流れてしまう状態にあったことが影響しているという。この手紙を受け、メンバー4人だけで集まったが、そこで誰も新たなボーカリストを入れることを言い出さなかったこともあり、バンドを解散させることが決まった。その後、リーダーのtetsuyaはスタッフに促され、バンド脱退を考えた具体的な理由を聞くためにhydeと2人だけで会う。そこで2人が「バンド内の雰囲気や事務所との関係を改善していくこと」を確認し合い、L’Arc〜en〜Cielを継続させることが決まった。

2003年 – 2012年:『SMILE』『AWAKE』『KISS』『BUTTERFLY』

2000年のドームツアーから約2年半経った2003年6月に国立代々木競技場 第一体育館で、バンド名の日本語訳である「虹」の色数を踏まえた7日間にわたるライブ「Shibuya Seven days 2003」を開催。当時この公演が解散ライブになると噂されていたが、最終日公演の終わりに場内のスクリーンで「翌年にニューアルバムをリリースし、ライブツアーを開催する」と告知し、世間で流れていた解散説を一蹴する。

そして2004年2月に、約2年5ヶ月ぶりとなるシングル『READY STEADY GO』を発表。このシングルの表題曲は、U.S.ポップ・パンクの雰囲気を纏ったtetsuya作曲のロックナンバーとなっており、当時のhydeが書く歌詞としては珍しく、気持ち新たに走り出そうとする前向きなリリックがのせられている。また、この曲は日本国内外で人気を博した漫画・アニメ『鋼の錬金術師』のオープニングテーマに使用されたこともあり、2000年以来4年ぶりにオリコン年間シングルランキングTOP30にランクインしている。さらにこのシングルは韓国でも発売されたが、これは日本人アーティストとして初の同国でのシングル作品のリリースとなった。なお、この時期からフィジカル発売と同日もしくはそれに先駆けて、シングル表題曲を各種音楽配信サービスサイトで発表するようになり、リリースの形態を大きく変えている。同年3月にはライブでの告知の通り、約3年7ヶ月ぶりとなる9thアルバム『SMILE』を発表。この作品ではスリーピースのバンドサウンドが前面に出ているが、kenは制作姿勢について「今はまた立ち返って、こういうふうなとか、ああいうふうなとか、ラウドロックとか、ハードロックとか、”何とかロック”じゃなく、シンプルなロックを上手く自分達が楽しめてやれればいいなと思った」と語っている。そして同年5月からアルバムを引っ提げ、ライブツアー「SMILE TOUR 2004」を開催し、バンド活動を本格的に再開する。

2004年7月には、アメリカ東海岸で開かれる地域最大のアニメコンベンション「OTAKON 2004」の一環として「L’Arc〜en〜Ciel Live in USA」を開催。この自身初となる海外公演は、アメリカ・ボルチモアのファースト・マリナー・アリーナで行われ、海外で人気が高まり始めていた日本のアニメの主題歌に使用された「Blurry Eyes」や「Driver’s High」「READY STEADY GO」を組み込んだセットリストを披露している。所属事務所代表の大石征裕は後年、この公演を振り返り「当日まで”オタク”コスプレのファンが物珍しさで集まってくるのかと思っていたら、ロックファンが1万1千人も集まり、開演前から地響きがするほど床を鳴らし、歓声を上げて迎えてくれた。当時ちょうど『鋼の錬金術師』が北米で人気だったこともあり、ラルクの認知は高まっていたのだ。彼らが海外で、みずからの人気を実感した瞬間だった。本番前のメンバーの高揚ぶりは今でも鮮明に覚えている」と述べている。この公演の成功を受け、L’Arc〜en〜Cielは海外でのライブ活動を開始する。

一連のツアーを終え、バンドは再びアルバムレコーディング期間に入る。そして翌2005年に、hydeが作曲を担当した楽曲「Killing Me」、yukihiroが作曲を担当した楽曲「New World」、kenが作曲を担当した楽曲「叙情詩」を立て続けにシングルでリリース。同年6月には、”愛と平和”をテーマのひとつとして据えた10thアルバム『AWAKE』を発表する。このアルバムはhyde作曲の楽曲が半数を占めており、hydeの中にある反戦や平和といった思想が歌詞に多く反映されている。L’Arc〜en〜Cielのアルバムの中では比較的コンセプチュアルな作品に仕上げられており、当時hydeはアルバムについて「人がどう捉えるのかわかんないけど、よくこんな内容の曲が世の中に流れてるなと思う。(歌詞の本質を)ちゃんと理解してるのは俺だけかもしれないけど」と述べている。

2005年8月にアルバムを引っ提げ開催したツアーを終え、L’Arc〜en〜Cielは同年9月からアジア3都市(ソウル、上海、東京)を巡るライブツアー「ASIALIVE 2005」を敢行。ソウル、上海公演では各所で約1万人を動員し、東京公演では約5年ぶりとなる東京ドーム公演を実施する。

2005年のアジアツアーを終えた後、各メンバーはソロ活動期間に移行する。そして結成15周年を迎えた2006年9月に、東京スカパラダイスオーケストラのホーンセクションが制作に参加した楽曲「the Fourth Avenue Café」をシングルとして発表する。この曲は、1996年に発表したアルバム『True』に初収録された楽曲で、1997年3月にシングルカットが予定されていたが、sakuraの逮捕に伴う活動休止により企画が白紙化されていた。そのため、これが約9年越しのリカットとなった。その後同年11月に、記念公演として東京ドームでライブ「15th L’Anniversary Live」を開催。この公演では初の周年公演であることを踏まえ、1998年にメンバーチェンジして以降ライブで演奏されなくなった楽曲もセットリストに組みこまれている。なお、このライブのタイトルとしてつけられた「L’Anniversary(読み:ラニバーサリー)」という「周年」を弄った造語は、以降の周年公演でも使われている。そして、最終日公演の終わりに場内のスクリーンで「翌年にニューシングルをリリースし、9年ぶりのホールツアーを開催する」と告知する。

翌2007年5月にライブでの告知の通り、シングル『SEVENTH HEAVEN』を発表。同年1月から行われたアルバムレコーディングがひと段落した後、同年6月から全36公演で組まれた9年ぶりのホールツアー「Are you ready? 2007 またハートに火をつけろ!」を開催し、未発表の新曲をふんだんに盛り込んだセットリストで日本全国をまわる。同年7月28日には、韓国・仁川広域市で開催された野外ロック・フェスティバル「INCHEON PENTAPORT ROCK FESTIVAL 2007」に日本人アーティストとして初のヘッドライナーで出演。同年8月からは「スバル・レガシィ」のCMソングに使われた楽曲「MY HEART DRAWS A DREAM」をシングルとして発売することを皮切りに、5ヶ月連続で作品をリリースする。そして同年12月に、11thアルバム『KISS』を発表する。”温かい愛情表現”を意識したタイトルがつけられたこのアルバムは「ポップなアルバムにする」という目標のもと、様々な音楽ジャンルを内包した作品に仕上げられている。

2007年12月からアルバムを引っ提げ開催した、童話『不思議の国のアリス』を題材としたシアトリカルな演出を取り入れたライブツアー「TOUR 2007-2008 THEATER OF KISS」を終えた後、L’Arc〜en〜Cielは2008年4月から世界7都市(上海、台北、パリ、ソウル、香港、大阪、東京)を巡るライブツアー「TOUR 2008 L’7 〜Trans ASIA via PARIS〜」を敢行する。このツアーでは、アニメ『機動戦士ガンダム00』のオープニングテーマに使用された「DAYBREAK’S BELL」やゲーム『デビルメイクライ4』の主題歌に使われた「DRINK IT DOWN」の他、バンドの代表曲を各地で披露してまわっている。なお、同年5月9日に行われたフランス・パリのルゥ・ゼニット公演は、自身初のヨーロッパでのライブとなり、日本全国5ヶ所の映画館において世界初の海外コンサートの同時生中継が実施されている。

この世界7都市でのツアーのさなか、L’Arc〜en〜Cielは「このツアーの終了後、結成20周年を迎える2011年までライブ活動を休止する」と発表する。そしてツアーを終え、各メンバーはソロもしくは別バンドでの活動期間に入る。ただ、新譜の制作は進められており、2010年には”メンバー全員がコンポーザー”というバンドの特徴を活かしたベストアルバム『QUADRINITY 〜MEMBER’S BEST SELECTIONS〜』の他、「PEPSI NEX」CMソングに使われた自身初のカバー音源「I Love Rock’n Roll」、バンクーバーオリンピック・パラリンピックのNHK放送テーマソングに使われた楽曲を収めたシングル『BLESS』が発表されている。また、同年9月からは水面下で、ニューアルバムのレコーディングを開始している。

2010年12月31日に10年ぶり4度目のNHK紅白歌合戦出場を果たした後、2011年1月1日0時からニューイヤーライブを開催。2011年5月には味の素スタジアムで、結成20周年を記念したライブ「20th L’Anniversary LIVE」を開催する。なお、この公演の約2ヶ月前に発生した東日本大震災を受け、開催前にメンバー4人とスタッフの連名で、ライブの収益全額を被災地への義援金として寄付することを公表している。そして同年6月に、疾走感をもたらすリズムアレンジが印象的なロックナンバー「GOOD LUCK MY WAY」を久々のシングルとして発表する。

2011年9月からはアリーナとドーム公演を含むライブツアー「20th L’Anniversary TOUR」を開催。このツアーは、メンバー4人以外がステージに立つことが滅多にないL’Arc〜en〜Cielでは珍しく、ステージ後方にストリングス隊を携えた構成で展開され、ストリングスアレンジを施した楽曲を披露している。このツアー中には、ロックバンドとして史上3組目となる1990年代・2000年代・2010年代の3つの十年代連続でのオリコン週間シングルチャート首位獲得、そして自身初のBillboard Japan Hot 100首位獲得を記録した、”R&Bとメタルをくっつけること”をコンセプトにしたシングル『X X X』を含む2作を、アルバムの先行シングルとして発表。そして2012年2月に、約4年3ヶ月ぶりとなる12thアルバム『BUTTERFLY』を発表する。「多彩さ」と「進化」の意味を込めたタイトルがつけられたこのアルバムは、2001年以来11年ぶりにオリコン年間アルバムランキングTOP30入りを記録する。

2012年3月からは、香港、バンコク、上海、台北、ニューヨーク、ロンドン、パリ、シンガポール、ジャカルタ、ソウル、ホノルル等、世界14都市を廻るワールドツアー「WORLD TOUR 2012」を開催。このツアーで、日本公演を含め約45万人を動員する。同年3月25日には、アメリカ・ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、日本人ミュージシャンとして初の単独公演を開催し、約1万2000人を動員する。hydeはこの公演を振り返り「今までのライブの中で一番覚悟が違った。日本の旗を持ってきてライブをした気分だった」「これまで一緒にやってきたメンバー、スタッフがいたから(ファンの前では)何事もなく終えられた。もっと感傷的にライブに入り込みたかったから80点かな」「アニメの力とか昔から聴いてくれてた人が集まったりしたことで実現した、ラルクだからできたこと」と述べている。また、tetsuyaは「ニューヨークでのライブは初めてなんで、いろいろ問題も多くて課題の残るライブだった」と述懐している。なお、この公演の模様は日本全国29ヶ所の映画館において、生中継でライブビューイングされている。

さらに、2012年5月2日に行った自身初のジャカルタ公演は、チケットを手に出来なかった人々も会場周辺に殺到する熱狂ぶりで、会場内外合わせて約1万7000人が集結し、このツアーの海外公演における最多動員を記録している。このジャカルタ公演はメンバーにとって特に印象深いライブだったようで、tetsuyaは「ジャカルタは別格ですね。歓声がもう、始まる前から凄かった。客入れの段階で、会場に入っただけで盛り上がってるんで。”スタートまでまだあと何時間もあるよ”ってときから凄いんですよ。だから演奏するこっちが興奮する感じ」「僕普段イヤーモニターしてて、両耳塞がれてるから外の音あんまり聞こえないんですけど、それでも聞こえるぐらい凄い歓声で。凄いですジャカルタは」と述べている。

このワールドツアーの日本公演では、日産スタジアム、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン野外特設ステージ、国立競技場(現:旧国立競技場)の3つの野外会場をまわっている。これは1999年以来約13年ぶりの野外公演だけで組まれた国内ツアーになっている。また、同年5月26日・27日に実施した国立競技場での最終公演は、ミュージシャンとしては史上4組目、ロックバンドでは初の同所での公演となった。そして同年5月31日に、ハワイ・ホノルルで公演を行い、一連のワールドツアーを締めくくっている。

2013年 – 2023年:別プロジェクトの活発化

ワールドツアーを終え、各メンバーはソロもしくは別バンドでの活動期間に入る。ハワイ公演から約1年10ヶ月経った2014年3月に、再び国立競技場(現:旧国立競技場)でライブ「L’Arc〜en〜Ciel LIVE 2014 at 国立競技場」を開催。日本の他、アメリカやイギリス、フランス、メキシコ、台湾、香港など海外20都市でライブビューイングも併せて実施する。この公演では前回と異なり、スタンド全周を客席とし5万5000人を収容、フィールドは花道を排除し限界まで座席を敷き詰め2万5000人を収容。これにより、スタンドとフィールドを合わせ8万人、両日で16万人の動員を記録し、ライブにおける国立競技場(現:旧国立競技場)の最多動員数を更新している。なお、今回はキャパの確保のため、フィールドに設置する照明装置を減らしている。そして照明装置の代替として、来場者にリストバンド型ライトとポンチョが無料配布されている。このリストバンドを無線で操作することにより、客席に光の文字を描き出すといった、観客を交えた照明演出をみせている。さらに、ポンチョを着用した来場者をスクリーンに見立て、会場に設置した100台以上のプロジェクターで虹や大海原を泳ぐイルカを投影するプロジェクションマッピングを演出として盛り込んでいる。なお、hydeはこの公演について「かなり実験だった」と述懐している。

2015年には単発2公演を開催し、ラテンのリズムを採り入れたシンセ・ポップな楽曲「Wings Flap」を約4年ぶりのシングルとして発表。2016年には、映画『バイオハザード: ザ・ファイナル』の日本語吹替版主題歌に使用された楽曲「Don’t be Afraid」を発表する。さらにこの曲ではゲーム『バイオハザードシリーズ』とコラボし、世界初となるPlayStation VR向けフルデジタイズ360°VRミュージックビデオが制作されている。

この時期のL’Arc〜en〜Cielは、各メンバーによる別プロジェクトが活発化していたこともあり、活動ペースが緩やかになっている。2013年から2017年の結成25周年ライブ「25th L’Anniversary LIVE」までの約5年間で、スタジオ・アルバムのリリースゼロ、リリースシングルは3作のみ、そしてライブツアー0本、単発公演3回(計6公演)、ライブイベント出演1回と、過去の新譜発表間隔・ライブ開催頻度と比較しても極端に長く、少なくなっている。L’Arc〜en〜Cielの活動が鈍化した背景について各メンバーが言及することが少ないため、真偽は不明だが、所属事務所の代表を務める大石征裕は「(ワールドツアーを)やり終えた後に、メンバーや私も含めて全員から出た言葉は”疲れた”だった。心身ともに疲れ、辛かったというのが全員の感想で、4人のなかの価値観の違いとか、夢を掲げているだけでは無理があるのでないかということも感じた」「関係スタッフが二人、不慮の事故で立て続けに亡くなっていることも、我々の心に大きく影を落としていた」と語っている。

結成25周年公演を終えた直後から、週刊誌等で「一部メンバーと所属事務所間の不和」が報じられ始める。メンバーがこういった報道に触れることはなかったが、所属事務所の代表である大石征裕は2020年に発表した自身の著書の中で、この時期に関し「(2012年の)ワールドツアーを始めとして、私の仕事の進め方にはこれ以上ついていけない、と一部メンバーからの意思表示もあった」と綴っている。そして、リーダーのtetsuyaは25周年公演の終了後、大石に「信頼関係が保てるライブ制作体制を目指したい」と申し出て、「ライブ制作に携わる会社を新たにコンペで選定すること」を確認し合い、複数のプロモーターと交渉したうえでライブ・ネイションと連携することを決めている。

ライブの制作体制を見直したL’Arc〜en〜Cielは、2018年12月に東京ドームで自身初のクリスマスライブ「L’Arc〜en〜Ciel LIVE 2018 L’ArChristmas」を開催する。この公演では、前記の体制変更により興行主体がライブ・ネイションへと変わり、PA、照明、制作、舞台、各種システム担当など、多くのスタッフを一新したうえでライブ制作が行われている。そのためこの公演は「L’Arc〜en〜Cielのライブ制作の一つの転換点」になったといえる。なお、2018年以降もバンドは所属事務所をマーヴェリックから変えておらず、ライブの運営会社としても引き続き同社と契約を続けている。

2019年12月には各種サブスクリプションサービス(定額制音楽配信)において、楽曲のストリーミング配信を開始。さらに同月に公式YouTubeアーティストチャンネルに加え、公式Instagramを開設する。そして、ストリーミング配信開始直後に公開されたSpotifyの週間バイラルトップ50(日本)チャートにおいて、L’Arc〜en〜Cielの楽曲が34曲同時チャートインを記録する。また、同チャートにおいてTOP18を独占するチャートアクションをみせている。なお、L’Arc〜en〜Cielは2021年に発表したシングル以降、フィジカル発売の1ヶ月以上前から先行して新譜のストリーミング配信を行うようになり、リリースの流れを大きく変えている。

その後L’Arc〜en〜Cielは、2020年にライブツアー「ARENA TOUR MMXX」を開催。約8年ぶりのツアーであったことから、150万枚を超えるチケット申し込みが殺到する。そして結成30周年を迎えた2021年には、バンドが初ライブを行った日である5月30日に合わせてライブを開催し、hydeがリスナーに対する想いを綴った楽曲「ミライ」を初披露する。そして同年8月からは「ミライ」を含むシングル2作品をリリースし、ライブツアーを実施している。なお、L’Arc〜en〜Cielが2作以上のフィジカルシングルを発表するのは、2011年以来10年ぶりのことであった。翌2022年5月には東京ドームで、30周年の最後を締めくくるライブ「30th L’Anniversary LIVE」を開催。同年12月にはAmazon Prime Videoで217の国と地域に向け、結成30周年の最終公演の模様と、舞台裏に密着したドキュメンタリーを配信する。30年の活動を振り返り、hydeは「バンドを続けるっていうのはなかなか難しい。いろんなバンド、解散していくもので。30年続けるのは本当難しいと思うんですね。そんな中でもそれぞれが、我慢していることもあるだろうし、変化する部分もある。そういう変化に対応しながらみんな努力してて。みんな大変だったと思うけど、”よく頑張りました”じゃないですか、一言でいうと」と述べている。また、kenは公演を振り返り「(ラルクは)ともすると、”まとまりがない”というふうにも評価できると思うんですね。”みんながそれぞれ”っていうところで。そんな4人を(観客が)包んでくれているというか。上手く言えないんですけど、ライブ会場ではそれがある気がするんです」と語っている。

2024年 –

結成30周年公演が終わった後、各メンバーは別プロジェクトを再開。そして、2024年2月からライブツアー「ARENA TOUR 2024 UNDERGROUND」を開催する。同年11月にはバンド名を冠した新たなレーベル「L’Arc〜en〜Ciel」を設立(流通はソニー・ミュージックレーベルズが従来通り担当)。「ラルクと共に、もっと自由に。」をコンセプトとし、「L’Arc~en~Cielがファンと共に今まで以上に愛され続けるように」との思いで設立された。同年10月に、新レーベルからリリースされる第一弾となる楽曲「YOU GOTTA RUN」を先行配信した。

hydeの誕生月である2025年1月には、初のメンバープロデュースによるバースデイライブ「LIVE 2025 hyde BIRTHDAY CELEBRATION -hyde誕生祭-」を東京ドームで開催。自身20回目の同所でのライブとなった最終日公演で「結成35周年を迎える年での再会」を予告する。

音楽性

音楽的影響・嗜好

メンバー4人が共通で好きなアーティストは多くないが、ザ・キュアー、デペッシュ・モード、ジョニー・マー(ザ・スミス、ザ・ザ)、U2といった1980年代のニュー・ウェイヴ、ポストパンクのアーティストや、DEAD ENDが手掛ける楽曲のような耽美なゴシック・ロック要素を内包した音源に関しては、全員が好んで聴いていたという。そのため特にL’Arc〜en〜Cielが活動初期に発表した楽曲は、これらの影響を受けたものが多い。なお、kenは2004年に受けたインタビューの中で、活動初期の楽曲制作を振り返り「ザ・キュアーみたいな雰囲気でバッキングトラックを作ったらどうかとかがあった」と述べている。そしてtetsuyaは「バイブルですよ、キュアーは」と語っている。また、所属事務所の代表を務める大石征裕は、L’Arc〜en〜Cielと出会った頃を振り返り「(メンバー)4人ともザ・キュアーのようなUKロックをよく聞いていたと記憶しています」と述懐している。余談だがhyde曰く、かつてkenから「ザ・キュアーのロバート・スミスみたいに歌ってほしい」とリクエストされたこともあったという。

前記のジャンル以外にも各メンバーは幼少期から学生時代にかけて様々な音楽を聴いていた。hydeは自身の音楽の原体験のひとつとして、小学生の頃に実家のジュークボックスに入っていたオフコースやビリー・ジョエルといったアーティストをあげているが、学年が上がるにつれ、ニュー・ウェイヴの他、ニューロマンティック、ハードコアに傾倒していった。また、kenは幼少の頃、父からの影響で映画音楽やニニ・ロッソを、姉からの影響で松山千春やニューミュージックを聴いていたといい、中学からはエイジアなどのプログレッシブ・ロックや、ハードロック、ヘヴィメタルを好んで聴いていた。そしてtetsuyaは、小学6年生頃からイエロー・マジック・オーケストラや一風堂、ニューロマンティックのアーティストの楽曲をよく聴くようになり、中学時代からkenを含む幼馴染の先輩からの影響でヘヴィメタルも愛聴するようになった。一方でメンバーは学生時代に、日本のメジャーシーンでヒットしていたロックバンドをあまり聴いておらず、hydeは2002年に受けたインタビューの中で、1980年代に日本で流行したビートロックに関して「好みではなかった」と述べていたことがある。また、kenは「自分が聴いてきた音楽は全然100万枚ヒットのものじゃないし、チャートを聴いてたわけでもなかった」と語っている。

1993年から1997年までドラマーとして在籍していたsakuraは、他のメンバーと同様にDEAD ENDや80年代のニュー・ウェイヴを聴いている他、兄の影響でビートルズ、箱バンドでセッションドラマーとして活動していた経緯もありジャズも好んで聴いていた。sakuraは1994年に受けた音楽誌のインタビューの中で、好きな音楽について「挙げたらキリがないですよ。70年代のハード・ロックも聴くし、ひと昔前のジャズ、今ならブルー・ノート・レーベルから出てるヤツとか…。昔のアルバムは、ミュージシャンがどこにいて、どんな表情で演奏しているのかも、聴いているだけで伝わってくるじゃないですか。そういうところがいいんですよ」と述べている。一方で、1998年からバンドに加入したyukihiroは、ニュー・ウェイヴやニューロマンティックからの影響の他に、ミニストリーをはじめとするインダストリアル、さらにエレクトロニック・ボディ・ミュージック、エレクトロ・ポップ、テクノ、ハウスなどのクラブ・ミュージックに寄った音楽も好んで聴いていた。

各メンバーは他にも、ボサノヴァやソフト・ロック、オルタナティヴ・ロック、グランジ、シューゲイザー、トリップ・ホップ、フレンチ・ポップス、ポップ・パンク、オルタナティヴ・メタルなど様々なジャンルの音楽を好んで聴いている。メンバーそれぞれで好む音楽性に違いがあること、そしてメンバー全員がコンポーザーというバンドスタイルを採っていることもあり、L’Arc〜en〜Cielの音源は幅広くジャンルを横断したものになっている。tetsuyaはバンドの特徴について「バンド名がラルク アン シエルで、虹って意味だから、最初は白と黒で始まって、いろんな色が入ってくる。白と黒だけじゃなく、七色入ってくる広がりがあるバンドという。そういうことを無意識にやってるんでしょうね」と述べている。

L’Arc〜en〜Cielは、1999年から2002年にかけてパーソナリティを務めたラジオ番組『FLYING〜L’Arc〜ATTACK』の中で、自身が好んで聴いている楽曲をレコメンドする企画をたびたび行っていた他、音楽雑誌『GiGS』や各メンバーが個人名義で発表した本などに、自身が愛聴したアルバムを掲載していたことがある。また、2019年にSpotifyなどのストリーミングサービスで音源配信を始めて以降は、メンバーそれぞれが洋楽をメインに選曲した、ライブ開演前の会場で流すためのBGMプレイリストを同サービス上で公開するようになっている。このようにL’Arc〜en〜Cielは、メンバーそれぞれが好む音楽をリスナーとシェアすることが多い。なお、tetsuyaは2000年に受けたインタビューの中で「ラルクだけしか聴かない人なんていないでしょ。そんなことべつに求めないし、そんなのキモチ悪いじゃん(笑)。いろんな音楽聴いて、いろんなライブ観たほうが楽しいし」と語っている。

ちなみに、L’Arc〜en〜Cielのライブでは終演の際にアイルランドの歌手、エンヤの楽曲「ブック・オブ・デイズ」を会場内に流すことが定番になっている。また、活動最初期の頃はオープニングBGMとして、ミニストリーの楽曲「アイ・プリファー」をよく流していた。

現メンバーが影響を受けたアーティストまたは、愛聴している楽曲を手掛けたミュージシャンは下記の通り。

L’Arc〜en〜Cielと『ヴィジュアル系』

ポップジャム事件

1999年4月19日、NHKで放送された音楽番組『ポップジャム』の同年5月1日放送分の収録にL’Arc〜en〜Cielが参加した。その日の収録では2曲が演奏される予定であったが、1曲が演奏終了した時点でメンバーが演奏を中止、そのままステージを去るという事態が起こったと同年4月25日発行の日刊スポーツ紙などで報じられた。

事の発端は、当時番組のMCを務めていたお笑いコンビ・爆笑問題がトークの中で、メンバーに対して”ヴィジュアル系”と発言したことによるものとされた。そしてL’Arc〜en〜Cielは、トークの後に「HEAVEN’S DRIVE」の演奏を行ったが、tetsuyaが本来担当するはずのコーラスパートを無視し、演奏を終了。ステージから捌けていく際には「ベースをぞんざいに扱う」など不機嫌な様子だったと報じられた。他には、「本来は2曲撮影する予定だったところを1曲で切り上げた」とも伝えられ、一連の行動に対し議論を呼ぶことになった。

事件の真相、事件後の反応

上記の報道内容について、tetsuyaは「元々2曲を別々に収録する予定であり、楽器をぞんざいに扱い、キレてそのまま帰ったというのは間違い」と否定している。実際は、番組に出る時点で要望などを事務所やレコード会社に伝えていたが、それが司会の爆笑問題まで伝わっていなかったことに起因しているとも述べている。

tetsuyaは2004年に発売したインタビュー本『哲学。』の中で「2曲続けてではなくて、1曲ずつ別々に演奏することになっていたんですよ。で、1曲演奏して、楽屋に戻ったときにそういう話をして、”気持ちよく仕事がしたいんだけど、そういう環境が整ってないんで、今日は失礼させていただきます”って、ちゃんと挨拶をして、爆笑問題さんにもちゃんとそういう話をしたうえで、帰ったんですよ」「ちゃんとスタッフが打ち合わせをしているべきところなんですが、それが出来てなかった。(中略)それはこっちサイドのスタッフのミスだったと思うんですよ。NHKさんにも爆笑問題さんにも何も悪いところはないというか。俺たちは爆笑問題さんに対して、まったく怒ってないんですよ。というか、お笑いの人だから面白おかしく言うに決まってるじゃないですか。あくまでもうちのスタッフに対して、もっとちゃんとやってくれよっていう意味での行動だったんですよ」と語っている。

実際、一部週刊誌やスポーツ紙で「NHKと揉めた」と報道されたが、事が起きた1999年末にはL’Arc〜en〜Cielとして『第50回NHK紅白歌合戦』に出演している。L’Arc〜en〜Cielはこの年以降も、同番組を含むNHKが放送する音楽番組にたびたび出演している他、2010年にはバンクーバーオリンピック・パラリンピックのNHK放送テーマソングに「BLESS」という楽曲を提供しており、特段不和は見られない。なお、tetsuyaは当時の報道に関し「怒りを感じることもありますけどね。事実じゃないことを書かれたりすることが多いんで。でも面白おかしくしたほうが、視聴率を稼げたり、部数が売れたりするから、仕方ないんじゃないですかね」と述べている。

これに対し、長年語ってこなかった爆笑問題・太田光は、事件から約20年の時が過ぎた2019年2月に、自身がレギュラーを務めるラジオ番組『爆笑問題カーボーイ』において「俺には何もキレてないし、俺たちにはむしろ”すみません”って」「彼らの名誉のために言っておくけど、本当に真摯な態度で”申し訳ありません”って帰って行った」「番組プロデューサーからNHK側のミスで、と伝えられた」と当時を振り返り発言している。なお、tetsuyaは太田の発言を受け、自身のニコニコチャンネルにおいて、「太田さんの口から言っていただけると説得力があります」「自分達のレコード会社とトラブルにはなったがNHKとはトラブルにはなっていない」「NHKにはその後オリンピックのテーマもやらせてもらった」といった発言をしている。これにより、当時週刊誌等で報道された”ラルクと爆笑問題がケンカを起こした”という出来事は無かったと双方の発言により明らかとなった。

上記の騒動を踏まえてか、現在に至るまでヴィジュアル系バンドの特集がテレビ番組などで放送される際、L’Arc〜en〜Cielが取り上げられることは少ない。なお、L’Arc〜en〜Cielはレコード会社を通じ、CD取り扱い店舗に<L’Arc〜en〜Cielの商品はヴィジュアル系のコーナーに展開せず、J-POP・ROCKのコーナーに展開して下さい>という内容の書類を送っていたこともあったという。

『ヴィジュアル系』に対するリーダーtetsuyaの見解

tetsuyaは現在まで一貫して、音楽ジャンルでない”ヴィジュアル系”というひとつのムーブメントの枠に包括されることを拒否しており、”ヴィジュアル系”という呼ばれ方を否定している。ただし、ヴィジュアル系と呼ばれるバンドやそれを自称するバンドを名指しで批判してはおらず、ヴィジュアル系が好んで着るファッションに関しても否定的な見解を述べていない。なお、tetsuyaは2004年に受けたインタビューで以下の発言を残している。

『ヴィジュアル系』に対する他メンバーの反応

  • hyde – 1994年に出演した番組で、自身が1980年代にイギリスで流行したニューロマンティックの様式美に多大な影響を受けていることもあり、デュラン・デュランを例にあげたうえで「ルックスも好きだし、でも音楽も大好き」と語り、そのうえで「そういう受け止められ方をして貰うと一番嬉しい」と発言している。そして2000年に受けたインタビューでは「(ヴィジュアル系と呼ばれることは)自分としては嫌だけど、世間がそう言うからには”しょうがない”みたいな諦めがあった」と諦念を含んだコメントを残している。さらに、2012年に本名名義で出版した『THE HYDE』の中で「俺達はそんな枠組みに憧れてバンドをやってた訳じゃなかった」と述べている。また、hydeはこの本の中で、”かつてヴィジュアル系と呼ばれていたバンド”について「俺達の世代のルーツってメタルとかニューウェーブあたり」と語る一方で、” 2012年当時の自分より後に出てきたヴィジュアル系バンド”について「”ヴィジュアル系”がルーツ」と述べており、「(自分たちとは)実は根本が違う」と綴っている。なお、hydeは2023年に受けたインタビューの中で「とにかく自分が楽しいと思うことを自由にやって、ジャンルやシーンのボーダーを壊したい。”こうじゃないといけない”とかそういう固い考えって邪魔だと思ってて。いいところは全部吸収して、自分なりに昇華していったほうが面白いしエンタテインメントとして見たとき、もっとジャンルやシーンがぐちゃぐちゃになったほうがいいと思う」と語っており、ジャンル分けや枠組みに固執しない音楽活動を志向していることを示唆している。
  • ken – 1994年に出演した番組で「ヴィジュアル先行で見られるのは嫌ですか」という問いに対し「そうでもない、先行というか同じ歩調で行けば別に…。”この人、音楽は良いけど顔ダサい”って言われるよりは良い」と発言している。また、2010年には自身のTwitter上で、「自身にどういうあだ名をつけるか」との問いに対して「ヴィジュアル界一の黒さ」と答えている。
  • yukihiro – 2009年に、ヴィジュアル系バンドという呼ばれ方に関し「俺とかがヴィジュアル系って呼ばれていた時(ZI:KILL在籍時)は、”言うな”って思っていた」「自分達で”ヴィジュアル系です”って言うのが出てきた時点で (ラルクはヴィジュアル系とは) 違うと思う。俺とかの頃は”ヴィジュアル系です”って言ってバンドなんかやってなかった」と語っている。なお、yukihiroは自身が加入する前のL’Arc〜en〜Cielの印象について「いわゆるビジュアル系って言われてたわけじゃないですか。そういう人たちがやるような音楽じゃないよなって、それが面白かったですね。みんなにあんまりそういう血がないんだってことですね(笑)」と述べていたことがある。

評論家による評価

  • 市川哲史(音楽評論家、音楽と人元編集長) – 市川はL’Arc〜en〜Cielのスタンスについて「誰がどう観ても聴いてもV系のくせに<V系であること>を頑なに拒否し続けている」と指摘している。その一方で市川は、ヴィジュアル系を集めたエクスタシーレコードの設立者であるYOSHIKI(X JAPAN)主催によるヴィジュアル系バンドが集うフェス「VISUAL JAPAN SUMMIT 2016」に、tetsuya以外のメンバー3人がソロ名義で出演したものの、L’Arc〜en〜Cielとしては出演しなかったことについて高く評価している。市川は「今回のフェスは、『出演しなかった奴こそ主役』だったんだな実は。自らの意志で出演を拒んだ奴の勇気と正義、みたいな(苦笑)。だってBUCK-TICKにせよDEAD ENDにせよISSAYにせよ、『ルナフェス出演したけど今回は拒否』組はV系バンドじゃないもんねぇ。だから他の三人がYOSHIKIちゃん祭りの壇上に上がっても、一人だけ出演しなかったtetsuyaの頑なさは、死ぬほど面倒くさいけど立派だと思う。でも初めて感心したよ、あの男に」とコメントしている。
  • 藤谷千明(音楽ライター) – 藤谷はヴィジュアル系の代表的なバンドであるX JAPANと比較し、「X JAPANとラルクとでは、”背景とするもの”が大違い」と分析している。また、メンバーの音楽以外の趣味・嗜好を指摘し、「ラルクは明らかに文化系気質のバンド。ゆえにX JAPANを中心においたヤンキー・ヴィジュアル系とは、根本的に趣味・嗜好が異なるわけです。彼らの”主張”も故無きことではないのです」とL’Arc〜en〜Cielのスタンスに一定の理解を示している。
  • 冬将軍(音楽ライター) – 冬将軍は1999年のポップジャムでの出来事に関し「この事件は、”スター気取りのラルクのわがまま”といったようなマイナスエピソードとして語られることもあるのだが、己の美学を追求しているだけなのに、流行の一環として後追いの言葉で括られることに対する反発であり、さまざまな偏見を持たれてしまった”ヴィジュアル系レッテル”への反抗でもあった」と推察しており、「ゆえに事件当時、ラルクファン以外からも賛同の声があった」と当時を述懐している。また、冬将軍は「L’Arc〜en〜Cielはヴィジュアル系と呼ばれることを良しとしていないため、ヴィジュアル系バンドではない」と踏まえたうえで、「しかしながら後発バンドに与えた影響を考えれば、同シーンを語る上では欠くことのできないバンドであることは言うまでもない」と述べている。

楽曲制作

作詞

L’Arc〜en〜Cielにおける楽曲制作では、作詞のほとんどをボーカリストのhydeが担当している。時折hyde以外のメンバーが作詞することもあるが、フィジカルシングルの表題曲に関しては「New World」と「FOREVER」を除き、hydeが全ての作詞を行っている。

  • hyde

L’Arc〜en〜Cielとして作詞作業をするようになってしばらくは、今いる世界からの逃避を望んだような歌詞や、遠くを見つめた願望のような歌詞を多く綴っていた。そのため、音楽評論家の市川哲史は、1998年に発表されたアルバム『HEART』に関するレビューの中で、hydeが綴る歌詞について「hyde独特の逃避願望である<空に浮かんでたい>癖」と表現していたことがある。なお、hyde自身は1993年に受けた音楽雑誌のインタビューの中で「俺は身の回りのことしか歌わないから、ありえないような話は全部”例え話”だと思ってもらえればいいですね」と述べており、現実離れした世界について書いているつもりはなかったことを示唆している。ただ、hydeは2021年に受けたインタビューにおいて、過去に綴ったリリックについて「(架空の物語の中に)自分にとってのリアリティがあったんです」「書いていたのは想像の世界だけど、自分としてはリアルを求めてそうなった」と述懐している。また、L’Arc〜en〜Cielがヒットを重ね続けた1998年から1999年頃の作詞作業について、hydeはその当時「何か解放されたい意思っていうのが強い感じ。もう歌詞書いてて”どっか行こうどっか行こう”ばっかり」と述べていたことがある。

hydeは、多感な学生時代に洋楽あるいはハードコアな音楽をよく聴いていたため、バンドを始めた最初の頃は日本語の歌詞を書くことに不慣れだったと述べている。そしてL’Arc〜en〜Cielで作詞を行うにあたり、hydeが参考にしたものは、幼いころから好きだった小田和正(オフコース)が綴る歌詞だったという。hydeは、2016年に受けた音楽雑誌『Rolling Stone Japan』の取材において「音楽を作り始めた頃は僕はハードコアや、ゴシックロックにハマってたから、ラルクを始めて、すごくキャッチーな曲がメンバーから出てきた時に、どういう詩を書いていいかさっぱりわからなかったんです。”何を言ってええんやろうな?”ってすごい迷って試行錯誤して詩を書いた時に、開いた引き出しがオフコースで。オフコースの曲って、実は都会的なクールな感じで、歌詞もすごく抽象的だと思います。言葉もかなり選んでいるし。そういうところで、”あ、こういう表現の仕方があるな”って。歌詞もその時の影響が出てる。例えば「Blurry Eyes」は、小田和正さんが使うような言葉がいくつかあると思います」と述べている。このように、自身が尊敬する小田和正が書く歌詞の言葉選びや、抽象的な比喩表現を取り入れていき、”比喩に比喩を重ねた表現”と言われるようなリリックを綴るようになった。hydeは2012年に受けた音楽雑誌のインタビューにおいて、誰にでも分かるような直接的表現を避けてきた理由について「悲しいことを”悲しい、悲しい”って言ってるのはあまり悲しくないんですよ。むしろちょっと引くんですよね。抽象的だったり間接的な表現のほうが伝わるというか」と述べている。

さらにhydeはL’Arc〜en〜Cielの活動当初、視覚的に楽曲をイメージするため、歌詞を書く前に絵を描くようにしていたという。このことについて、hydeは1994年発表のアルバム『Tierra』のインタビューで「これはずっと続けてきていることなんですが、詞を書くうえでのガイドとして、カンタンな絵を1曲ごとに描いて、自分がその世界にいるという気持ちで詞を書いていくんです。そうすると、具体的なものが見えてくる」と語っている。文芸評論家の町口哲生は2007年に発行された『別冊宝島』にて、この頃にhydeが綴った詞世界に関し「触覚的な世界(手触り感や肌理をもっているという意味)」と表現している。

2000年頃からhydeの綴る歌詞に、現実を見据えたようなフレーズが増えている。2000年に発表されたアルバム『REAL』に関するインタビューの中で、hydeは「”なんだ、2000年になっても街は何も変わらないじゃん”って。ささやかな望みはあるけど。そういうことを書いてる。『REAL』というアルバムは。諦めてるけど、”ひょっとしたらいいことあるかもね”っていう」「現実的に、深い夢のような未来はあり得ないっていうのが、見えてきてるんだろうね。だから、冷めた詞が多い」と心境の変化を述べている。

アルバム『REAL』をリリースした後、2001年半ばあたりから、hydeを含めたL’Arc〜en〜Cielのメンバー4人は、ソロ活動や別バンドでの活動を始動し、L’Arc〜en〜Cielとしての活動が事実上の休止状態となった。その後L’Arc〜en〜Cielは、バンドを解散させることも考えたが、2003年6月に久々のライブを行い、本格的に活動を再開することになった。そして2004年に、約3年7ヶ月ぶりのアルバム『SMILE』を発表している。このアルバムでは、hydeがこれまでに書いたリリックのテーマとは異なり、ストレートな前向きさを綴った歌詞が多くなっている。この当時に受けたインタビューの中で、hydeは「もう、普通に悲しいだけのCDじゃ、僕、心が動かされないんですよ。今の僕のテンションがそうなのかもしれないけど、悲しい詞を今僕がやると、逆にすごく嘘っぽく書いちゃうような気がするんですよね。あんまり興味がない。そういう悲しい部分を表現した曲もあると思うけど、でもどっかに、ちょっと今の気持ち的には悲しいとか、暗い部分を音源にしたくないなって気持ちがあるのは確かですね」と心境の変化を述べている。また、2005年発表のアルバム『AWAKE』では反戦・平和をテーマとした歌詞、2007年発表のアルバム『KISS』では人と人のミニマムな関係性を身近な表現でつづったものが多く手掛けられている。

hyde曰く、2006年・2007年頃から、”ありふれた日常”をテーマにした歌詞も書くようになったという。以前にもhydeは「C’est La Vie」や「TIME SLIP」「ALL YEAR AROUND FALLING IN LOVE」など、いくつかの楽曲の制作で、身近に起きた出来事をもとに歌詞を書いたことがあったが、2007年に発表したアルバム『KISS』には、人に近い表現を用いた歌詞をのせた楽曲が数多く収められている。hydeは2012年に発表した自叙伝において、この当時の心境の変化について「普段の生活の中で、ふと愛に満たされた時、”このまま、死んでもいいや”って思った瞬間に宇宙と繋がった気がした事があったんだよ。なんか、死を迎え入れられた瞬間に”あ、なんだ、宇宙ってこんな物だったのか”って。ちなみに、俺、薬はやってないよ(笑)。そして、宇宙の摂理というか、なんか全てがスッと理解出来た気がして。それが大きかったのかもしれない。その時に、多分、生への執着がなくなったんだろうな。それからというもの、周りのいつもの風景がとても愛おしく感じられるようになってきた。その感覚は、L’Arc〜en〜Cielの「ALONE EN LA VIDA」の歌詞に書いたり、HYDEソロの「I CAN FEEL」とか、その頃の作詞の核になってるんだけど。(中略)”いつ死んでもかまわない”と共に、”いつ死んでもいいように生きよう”って思う自分が加わった感じかな」と綴っている。また、この頃から、リスナーが歌詞の意味を大きく誤解しないよう、比喩だけではなく、直接的な表現を使ったフレーズも意識的に増やし始めている。

なお、hyde曰く、歌詞を書く際は作曲者から楽曲のイメージを聞き、それを基に作業を行うことも多いという。そして、映画やアニメーション作品に楽曲を提供する場合は、監督などの製作陣と話し合いを行ったうえで、そのタイアップ作品を意識した歌詞を書くこともある。L’Arc〜en〜Cieは2000年に映画主題歌として「finale」という楽曲を提供しているが、この時の作詞作業についてhydeは「映画と、まったく違うアプローチをしても夢からさめた感じがするし、かと言ってまったく同じだと逆に映画との相乗効果がない気がしたんです。で、自分の感性で、映画の中で流れるなら、こういう感じがいいかなと思ったんです」と当時述べている。

hydeは歌詞を書く行為について、「詞を書くのってホントに面倒くさいけど、人として書いてて良かったなとは思うよ。詞とか文章を書くって、すごくいい事だと思う」「頭で考えてるだけだと、なかなか一つの形にまとまらないんだよね。でも、文章にしていくと”あ、そっか、そう思ってたんだ”って文章って形で見えるからわかりやすいんだ。そうすると突き詰めやすくて、物事の本質が見える」「ヴォーカリストがちゃんと詞を書いて歌を歌うっていう行為は、一番リアルだと思うんですよ。人が書いた詞を歌うっていうのは、やっぱりその人の感性を代弁してるっていう感じだから。それが悪いって意味じゃないけど」と語っている。また、hydeは、音楽における歌詞について「結構ね、中途半端に理解されるべきもんだとは思うんですよ。歌詞なんて、いちいち説明してたらカッコイイわけない」「ちゃんと理解してほしいからといって、いいことばかり書いてもカッコイイものができるとは思わない」と語っており、インタビューなどにおいて歌詞の意図を明言することを避け、解釈をリスナーに委ねることが多い。

総合音楽家の和久井光司は、hydeが綴る歌詞について「あるストーリーの断片を散りばめたような雰囲気重視のもの」と表現しており、「パンク以後の精神性としての”ロックンロール”からは遠く、文学・映画・演劇の要素まで取り込んで”ロック”とする表現の発展性とみれば大いにありだと思う」と批評している。また、音楽ライターの小杉俊介は、2004年に発行された音楽雑誌『ROCKIN’ON JAPAN』の中で「浪花節的メンタリティーに依然支配されたままのこの国のヒットチャートの中で、<泣き>にも<共感>にも一切頼らないラルクが勝ち続けている事実は、賞賛してすぎることはないと思う」と批評している。

音楽雑誌『MUSICA』の創刊者で音楽ジャーナリストの鹿野淳は、hydeが綴る歌詞の特徴について「バラッドではかなり文学的な言葉世界を展開するものの、ドライヴ・ナンバーになると途端にわかりやすい言葉しか歌わなくなる。だからこそラルクの楽曲はどんな曲でも必ず”聴きとれる”。これは実は凄いことだ」と評している。さらにシンガーソングライターの松任谷由実は、1999年に行われた近田春夫との対談において、”同じつぶつぶを持っている人”として、hydeの他、2人の作詞家の名前をあげている。松任谷は、hydeを含む3人の作詞家が書く歌詞について「詞とメロディは連動してるけど、詞に心地よい空白を感じました」と評している。

hydeは好きな日本の作詞家として、前記の小田和正の他、aikoやCHARAの名前をあげている。hydeは2015年に受けた音楽雑誌のインタビューの中で、aikoが綴る歌詞について「aikoさんの書く詞は素敵だなって曲が流れるたびによく思います」と述べたことがある。

上記のように、L’Arc〜en〜Cielの楽曲の歌詞はhydeがほぼすべて手掛けているが、1996年発表のアルバム『True』以降のアルバムにおいて、hyde以外のメンバーも1〜2曲作詞を担当するようになった。なお、2007年発表のアルバム『KISS』には、hyde以外の3人それぞれが作詞・作曲を担当した楽曲を、1曲ずつ収録している。hyde以外のメンバーが作詞を担当したL’Arc〜en〜Cielの楽曲は、以下に記す(原曲のみ記載。パートチェンジバンド名義の音源やリアレンジバージョンなどは除く)。

  • ken – 「Lover Boy」「twinkle, twinkle」「Pretty girl」
  • tetsuya – 「milky way」「Perfect Blue」「bravery」「Time goes on」「砂時計」「FOREVER」
  • yukihiro – 「L’heure」「trick」「New World」「spiral」「shade of season」
  • sakura – 「”good-morning Hide”」

作曲

L’Arc〜en〜Cielは活動初期から、”メンバー全員がソングライター”というバンドスタイルを採っている。コンポーザーが4人いるが故に、メンバー4人それぞれの個性が、各々の作る楽曲に内包されており、これがL’Arc〜en〜Cielというバンドの最大の特徴になっている。L’Arc〜en〜Cielが作る楽曲には、メンバー4人それぞれのルーツミュージックの要素や、曲を作るタイミングで各々が興味を持っていた音楽性が反映されており、ハードロックやニュー・ウェイヴ、ポストパンク、グランジ、オルタナティヴ・ロック、インダストリアル、ダンス・ミュージックといった多彩なジャンルが混合されている。このように多種多様のジャンルを採り入れ、独自のポップ・ミュージックとして音源を仕上げている。

メンバー自身も、”4人全員がコンポーザー”ということをバンドの特徴の一つとして捉えており、hydeは「ラルク アン シエルはテーマを作らないで、みんなが思い思いの曲を書いていくんです。規制を作ってしまうと世界が広がらないと思いますし」と述べている。また、kenは「4人の作曲者がいて、それぞれにいろんな匂いがあるっていう面白さがあると思いますね」と語っている。ちなみにhydeは、L’Arc〜en〜Cielにおけるアルバム制作を「たとえて言えば、みんながキャンバスに好きな色を塗っていって、最終的に出来たものから、こういう絵が描きたかったんだって確認するような感じ」と表現していたことがある。

なお、1995年発表の3rdアルバム『heavenly』までの楽曲制作では、作曲者はオケのみを作り、歌メロに関しては基本的にすべてボーカリストのhydeが作っていた。そして1996年に4thアルバム『True』を制作するにあたり、作曲者が歌メロまで作る慣例ができ、L’Arc〜en〜Cielとしてのひとつの制作スタイルが確立している。なお、デモを作った原曲制作者以外のメンバーがメロディの一部を作りかえた場合は、作曲者クレジットに複数人を併記するかたちをとることが多い。

1998年に”即興的かつロジカルなリズム&グルーヴを生むドラムプレイ”が特徴的なsakuraから、”緻密かつタイトで、マシーン・ビートとの同期も好んだドラムプレイ”が特徴的なyukihiroへとドラマーが代わったことにより、リズムセクションを担う立場にあるtetsuyaのベースのプレイ・音量が変わっている。さらに、kenのギターアプローチの嗜好も変化したことで、この頃からグランジあるいはオルタナティヴ・ロック色の強い楽曲 が増えている。また、yukihiroはかつてOPTIC NERVEというユニットでインダストリアルやテクノ、エレクトロニック・ボディ・ミュージックを志向した作品づくりをしていたことがあり、その後加入したDIE IN CRIESというバンドにおいても、それらから影響を受けたインストゥルメンタルを制作していた過去があった。そしてL’Arc〜en〜Cielに加入した後も、その音楽的嗜好を反映させた”打ち込みとの同期を採り入れたバンド音楽”を制作している。こういった背景もあり、L’Arc〜en〜Cielの楽曲にクラブ・ミュージックとの親和性が高い音源が増えていくことになった。

なお、前述のジャンル以外にも、sakuraを含めたメンバー全員が影響を受けた音楽性として、ヘヴィメタルやハードコアがあげられるが、L’Arc〜en〜Cielの楽曲制作においてこれらの要素を分かりやすく採り入れることは少ない。kenは2005年に受けた音楽雑誌のインタビューの中で、その背景について「あまりにもメタルみたいなのは周りが嬉しそうじゃないような感じだった」と述べている。ただ、L’Arc〜en〜Cielの楽曲のリアレンジ版を発表するパートチェンジバンド、P’UNK〜EN〜CIELではスレイヤーやアイアン・メイデンといったメタルバンドをオマージュしたアレンジメントをお遊びで行っていたことがある。

また、L’Arc〜en〜Cielにおける楽曲制作は当初、各メンバーが提出した原型をもとに、幾度かのバンドセッションを経て、徐々に完成させていくスタイルを基本的に採っていた。ただ、2004年発表の9thアルバム『SMILE』あたりから、各メンバーがセルフスタジオなどでデモ音源を綿密に作るようになり、作曲者がイニシアチブを取りレコーディングを進めていくことも増えていった。バンドの共同プロデューサーを務める岡野ハジメ(ex.PINK)は、2003年以降におけるL’Arc〜en〜Cielの音源制作について「『SMILE』以降はメンバーも自分たちで打ち込んだりとか、プリプロも本ちゃんに近い形で持ってくる人が現れたりしましたね」「『SMILE』(2004)からは別のラルク・ブランドみたいな感じです」と述べている。

L’Arc〜en〜Cielというバンドについて、hydeは2024年に受けたインタビューの中で「(2018年以降のソロ名義の)HYDEはメタルコアに近づいて表面的にハードですが、精神的にはラルクのほうが奥底が灼熱な感じでもっとコアかもしれません。羊の皮を被った狼ですかね(笑)。そういった部分もおもしろいところかと思います」と語っている。また、岡野ハジメは「ラルクはある意味、俺の言うところのカタルシスの塊だと思うんです。彼らには予定調和や、平和に終わる楽曲は少ないじゃないですか。つまり、彼らはただポップなだけではない、モヤモヤしたような美しさを好んでいたし、俺もそういうものが好きだし、聴衆もそれを喜んでくれたわけじゃないですか。それが仕事レベルで実現できるアーティストは凄く少ないと思うので、ラルクと仕事ができて凄くラッキーだったと思いますね」と述べている。さらに、L’Arc〜en〜Cielの楽曲制作に長らく携わっていたマニピュレーターの斉藤仁は、1990年代の頃を振り返り「正直それまでの僕は流行りものを模倣するような仕事が多かったんですけど、ラルクは”作ったものが流行っていく”というか、今聴いても古いという感じがないですよね。流行を真似した曲はみんな古くなるけど」と述懐している。

草野マサムネ(スピッツ)は、2024年に放送されたTOKYO FM系ラジオ番組『SPITZ 草野マサムネのロック大陸漫遊記』の中で、L’Arc〜en〜Cielが1990年代に発表した楽曲「winter fall」に触れたうえで「ラルクは曲も歌唱もとても魅力的なんですけども、サウンドがねぇ、すごいタイトでカッコいいので、当時あの、レコーディングのときに参考にしていました。なんかこう、サウンドを参考にするアーティストっていうのは、ほぼ洋楽のアーティストっていうか、洋楽のバンドがほとんどだった中で、ラルクはそんな中で数少ない”音がカッコいいなぁ”って思ったバンドでしたね、邦楽のね」と述べている。また、小林祐介(THE NOVEMBERS、THE SPELLBOUND)は、自身にとってのL’Arc〜en〜Cielを「美しさの故郷」と表現しており、「激しい曲でも優しい曲でも常に美しいということ、そこが一番影響を受けているというか、心の指針になっているところがありますね」と語っている。

さらに、音楽ライターの安藤優は音楽雑誌『ミュージック・マガジン』の中で、L’Arc〜en〜Cielについて「ネクラの代表格ともいえるゴシックやダーク・サイケ風味を大胆に盛り込みつつも、平然とお茶の間に浸透して一般大衆の耳にアピールしてしまえる点に、ラルクの醍醐味や痛快さを感じる」「とかく日本のポップスやロックにありがちな借物だらけの段階での自己満足に終始することなく、イイトコ取りしつつも咀嚼してラルク的に仕立てるセンスには、バンドとプロデューサーの岡野ハジメの並々ならぬ曲者ぶりが発揮されており実に楽しい」と批評している。また、ポピュラー音楽評論家のジョン・ペアレスは、ニューヨークタイムズ紙において「多くの楽曲がメタリカ、U2、デペッシュ・モードやデヴィッド・ボウイのようなギター・ロックでありながら、”X X X”のダンス・ポップのようなタッチの、アメリカのロックバンドがやらないスタイルの曲もこなしている」とL’Arc〜en〜Cielの楽曲の多彩さについてコメントしている。

  • hyde (詳細は「hyde#楽曲制作」を参照)
  • ken (詳細は「ken#楽曲制作」を参照)
  • tetsuya (詳細は「tetsuya#楽曲制作」を参照)
  • yukihiro (詳細は「yukihiro#楽曲制作」を参照)

上記の現メンバー4人以外の作曲者クレジットがついたL’Arc〜en〜Cielの楽曲は、以下に記す(原曲のみ、スタジオ音源があるもののみを記載)。

  • hiro – 「I’m in Pain」「Nostalgia」(曲の一部を収録)
  • sakura – 「Inner Core」
  • L’Arc〜en〜Ciel – 「Shutting from the sky」「追憶の情景」「静かの海で」

編曲・プロデュース

L’Arc〜en〜Cielにおける音源の編曲作業は、メジャーデビュー後しばらく、バンドメンバー4人だけで行うことを基本としており、アルバム収録曲のうち1曲だけ外部のアレンジャーを招いてレコーディングすることはあっても、アルバム全体のプロデュースはすべてバンドだけで実施していた。ただ、1996年発表の4thアルバム『True』を制作するにあたり、外部から音楽プロデューサー/アレンジャーを6人招聘し、本格的に楽曲の共同アレンジを開始している。tetsuyaは、アルバム『True』を発表した頃に受けた音楽誌のインタビューにおいて、外部の編曲者と共同制作を行うことについて「もともとオレは、プロデューサーはぜったい必要だという考えなんですよ。海外のアーティストは、それが当たり前じゃないですか。プロデューサーといっしょに、バンドなりアーティストが共同作業をしていくっていうね。たとえば、ラットだったらボー・ヒルとか。そういうことをインタビューで読んだり、そうやって完成した音楽を聴いて育ってきたから、それがとうぜんだと思ってる」と述べている。

翌1998年に発表した5thアルバム『HEART』では、全10曲中9曲で岡野ハジメ(ex.PINK)が共同プロデューサー兼アレンジャーとして起用されている。そして岡野は、このアルバムリリース以降、L’Arc〜en〜Cielの楽曲制作に長らく携わるようになり、hydeが「ラルクのもう1人のメンバー」と表現するほど、”L’Arc〜en〜Cielの音源作り”におけるキー・パーソンとなっていった。ちなみに、岡野とL’Arc〜en〜Cielの初めての共同制作は、4thアルバム『True』収録の「Caress of Venus」「”good-morning Hide”」の編曲作業であった。

後年岡野は、L’Arc〜en〜Cielとの出会い、そして初仕事となった「”good-morning Hide”」の制作を振り返り、「80年代後半のブリティッシュロック的雰囲気…俺はザ・キュアーが大好きで、たまたまtetsuyaくんもhydeくんもザ・キュアーが好きだったんですよ。それで、ギターはただパワー・コードを弾くだけとか普通のコードをジャカジャカ弾くのではなく、ギターはイギリスのゴスやニュー・ウェイヴの感じにしようと、話し合いましたね。そういうことができる日本のバンドは少なかったので、”ラルクのメンバーはマニアックなものも受け入れてくれるんだ、これは嬉しい!”と思いました」と自身の著書で述懐している。なお、岡野は、プログレッシブ・ロックバンド、スペース・サーカスやニュー・ウェイヴバンド、PINKでベーシストを務めていたミュージシャンであり、L’Arc〜en〜Cielのメンバーが敬愛するバンド、DEAD ENDが1988年に発表したアルバム『shámbara』などでプロデュースワークを担当していた経歴がある。

本格的に外部のアレンジャーと共同で編曲作業を行うようになったのは、前述の通り、1996年発表のアルバム『True』以降だが、シングル作品では1995年に発表した「Vivid Colors」と「夏の憂鬱 [time to say good-bye]」を、西平彰と共同で編曲している。また、1994年発売の2ndアルバム『Tierra』では、全収録曲をバンドだけで編曲をしているが、元GRASS VALLEYのキーボーディストである本田恭之がベーシック・サウンド・ディレクター、”YMO第4の男”と言われた松武秀樹らがキーボードオペレーターとしてクレジットされている。また、同アルバム収録曲の「瞳に映るもの」では、富樫春生がプロデュースを担当している。

2000年以降の制作では、11thアルバム『KISS』を除き、岡野ハジメがアルバム全体のプロデュースを務めながら、時折、編曲作業に様々な音楽プロデューサー/アレンジャー/ミュージシャンを招聘するようになっている。これまで岡野以外に、CHOKKAKUや亀田誠治(東京事変)、久米大作、牛尾憲輔(agraph)などがプロデューサーあるいはアレンジャーとして、L’Arc〜en〜Cielの楽曲制作に参加している(下表参照)。ちなみに、2007年に発表したアルバム『KISS』以降は、kenとyukihiroが作曲した楽曲の編曲作業に関しては、バンド単位のセルフアレンジで行われることが多くなっている。

なお、kenは管弦編曲や鍵盤編曲に関しても外部に一任せず、自らが作業に関与することが多い。そのため、自作曲である「winter fall」や「Butterfly’s Sleep」「LOST HEAVEN」「ALONE EN LA VIDA」では、外部の編曲者とkenが共同で作業を行っている。岡野ハジメは2019年に発表した著書で、L’Arc〜en〜Cielにおけるkenのアレンジワークについて「kenちゃんはアレンジができて、譜面の読み書きもできる人です。彼と仕事をしていて凄く勉強になったのは…(中略)kenちゃんは内声に凄くこだわるんですよね。ギタリストだからでしょうけど、ミッドのところをどうするか、歌と他の楽器の音が当たっていないか、ストリングスの中でビオラの帯域をどうするか?といった、内声の動きにこだわるんです」「kenちゃんはたまに、リズム・テイクだけだと、最終的にどういう音楽になるかわからないようなギターを弾くことがあるんです。1音だけピーン!という音を弾いて、この音は何で鳴ってるのかなと思ったら、あとでストリングスやいろいろな音が出揃った時に、”このピーンはトップノートだったんだ。やっと分かった”なんていうこともありました。最初から、重ねた末にそういうハーモニーになることをちゃんと検証できて弾いているんです」と評している。なお、小林祐介(THE NOVEMBERS、THE SPELLBOUND)は、kenについて「kenさんは作曲の理論だったり、ギターでいうボイシングやグルーヴの作り方、アンサンブルの組み方にいつもハッとさせられます」と述べている。

また、L’Arc〜en〜Cielの楽曲のイントロアレンジに関し、川谷絵音(indigo la End、ゲスの極み乙女。)は2020年に「L’Arc〜en〜Cielの楽曲は名イントロの宝庫。イントロに1番バリエーションのあるバンドだと思う」と語っている。一方で、アウトロに関してはあっさりと終わることが多く、岡野ハジメは「ラルクはみんなエンディングに興味がないんですよ。謎の終わり方というか、それが色気につながってる」と述べている。

(※) プロデュース: Pd, コ・プロデュース: Co-Pd, 編曲: Arr, 管編曲: Bra Arr, 弦編曲: Str Arr, 管弦編曲: Bra&Str Arr, 鍵盤編曲: Key Arr, リミックス: Remix

カップリング曲

  • 1994年 – 1998年:『The Best of L’Arc〜en〜Ciel c/w』
    • L’Arc〜en〜Cielはメジャーデビュー以降、1998年に発表した10thシングル『DIVE TO BLUE』までは基本的に、過去作のアレンジ音源ではない新曲をカップリング曲としてリリースしていた。そしてこの時期のL’Arc〜en〜Cielは、「表題曲+”L’Arc〜en〜Cielが発表した過去作のアレンジ音源でない新曲” (+表題曲のインストゥルメンタル)」という形態でシングルを発表していた。
    • L’Arc〜en〜Cielがこの当時、シングルに収録するカップリング曲をスタジオ・アルバムに収録しない方針を取っていたこともあり、この時期に発表したカップリング曲は、発表から長らくアルバムに収録されることはなかった。ただ、2003年にベストアルバム『The Best of L’Arc〜en〜Ciel c/w』が発表され、この時期に制作されたカップリング曲がアルバムへ初収録されることになった。
  • 1998年 – 2000年:『ectomorphed works』
    • 1998年にyukihiroがL’Arc〜en〜Cielへ正式加入し、同年に12thシングル『浸食 〜lose control〜』を発表するにあたり、カップリング曲として表題曲のリミックス音源が制作されることとなった。当初、海外のアーティストに「浸食 〜lose control〜」のリミックスを依頼するプランもあったというが、yukihiroの希望により、yukihiroの手でリミックス音源が制作されることになった。そして、出来上がった音源をメンバーが気に入ったことにより、この作品以降もyukihiroによるL’Arc〜en〜Cielの楽曲のリミックス音源が、カップリングとして収録されることとなった。
    • こうしてL’Arc〜en〜Cielは、「表題曲+”yukihiroによるリミックス音源”(※インストゥルメンタルなし)」という形態でシングルを発表するようになった。この形態でのリリースは、13thシングル『snow drop』を除き、2000年に発表した19thシングル『NEO UNIVERSE/finale』までのシングル7作品で行われている。
    • このリミックス企画では、yukihiroが1980年代後半からイギリス・マンチェスターを中心に巻き起こったマンチェスター・ムーブメントの影響を受けていることもあってか、ハウスやインダストリアルを中心としたダンス・ミュージックを意識したリミックスが多く手掛けられている。余談だが、yukihiroは、ソロ名義で開催したDJ&ライブイベント「acid android in an alcove」において、ディスクジョッキーとしてこの時期に自身が制作したL’Arc〜en〜Cielのリミックス音源をフロアでかけたことがある。
    • カップリングに収められたリミックス音源は、2000年に再度リミックスしたうえで、リミックス・アルバム『ectomorphed works』に収録されることになった。なお、このリミックスアルバムはL’Arc〜en〜Ciel名義の作品ではあるが、yukihiroの単独プロデュースで制作されている。
  • 2004年 – 2011年:『P’UNK IS NOT DEAD』
    • L’Arc〜en〜Cielの活動を本格的に再開した、2004年に発表した24thシングル『自由への招待』以降のシングルには、メンバー4人がパートチェンジしたバンド、P’UNK〜EN〜CIELの音源が収録されることになった。P’UNK〜EN〜CIELは、L’Arc〜en〜Cielの楽曲をパンク・ロック風にアレンジし直してセルフカバーする企画バンドであり、メンバー4人が持ち回りでアレンジの主導権を握り、音源制作がすすめられた。ちなみにken曰く、この企画はhydeの発案がきっかけになっているという。
    • こうしてL’Arc〜en〜Cielは、「表題曲+”P’UNK〜EN〜CIELによるセルフカバー音源” (+表題曲とカップリング曲のインストゥルメンタル)」という形態でシングルを発表するようになった。この形態でのリリースは、29thシングル『the Fourth Avenue Café』と35thシングル『NEXUS 4/SHINE』を除き、2011年発表の37thシングル『GOOD LUCK MY WAY』までのシングル12作品で行われている。また、2004年以降に開催したL’Arc〜en〜Ciel名義のライブでは、P’UNK〜EN〜CIELがセルフカバーを数曲パフォーマンスするコーナーが設けられた。
    • カップリングに収められたセルフカバー音源は、2012年に再度ミックス・マスタリングしたうえで、L’Arc〜en〜Cielの12thアルバム『BUTTERFLY』の完全生産限定盤に付属された特典CD『P’UNK IS NOT DEAD』に収録されることになった。そしてアルバムリリースをもって、P’UNK〜EN〜CIELとしての活動は一旦の区切りになった。
  • 2011年 – :『L’Acoustic version』
    • 2011年に発表した38thシングル『X X X」からは、L’Arc〜en〜Cielの楽曲をアコースティックアレンジし直した「L’Acoustic version」と題された音源が収録されることになった。なお、リアレンジ音源のプロデュースは、P’UNK〜EN〜CIELの音源制作のときと同様に、メンバー4人が持ち回りで担当することになっている。
    • こうしてL’Arc〜en〜Cielは、「表題曲+”L’Arc〜en〜Cielの楽曲のアコースティックアレンジ音源(L’Acoustic version)” (+表題曲とカップリング曲のインストゥルメンタル)」という形態でCDシングルを発表するようになった。

パートチェンジバンド

L’Arc〜en〜Cielではバンド内の遊びも兼ね、不定期でメンバー間のパートチェンジを行い、音源制作・ライブ演奏を行うことが間々ある。そしてこのお遊びの発展型として、過去にKIOTO(読み:キオト)、D’ARK〜EN〜CIEL(読み:ダーク アン シエル)、P’UNK〜EN〜CIEL(読み:パンク アン シエル)の3つのパートチェンジバンドが企画され、これらがL’Arc〜en〜Ciel名義のライブでパフォーマンスを行っていた。なお、この3バンドの共通項として、メンバーが違うケースはあれど、”担当パートの振り分け方が同一”という点がある(L’Arc〜en〜Cielのベーシストであるtetsuyaがボーカルに、ドラマーのsakuraもしくはyukihiroがベーシストに、ボーカリストのhydeがギタリストに、ギタリストのkenがドラマーにチェンジする)。

KIOTO
1995年にL’Arc〜en〜Ciel名義で行った幾つかのライブに登場したTOKIOのコピーバンド。このバンドは、tetsuyaが城島茂(TOKIO)と交流を持っていたことがきっかけで始まっており、TOKIOの楽曲「LOVE YOU ONLY」だけをカバーしている。ちなみにこのバンドは、「TOKIOのリーダー、城島茂の公認バンド」とされており、「バンドの詳細は謎に包まれている」という設定が付けられている。
D’ARK〜EN〜CIEL
1996年から1997年にかけてL’Arc〜en〜Ciel名義で行ったライブに登場したスラッシーなメタルバンド。このバンドでは他2バンドとは違い、オリジナル楽曲が制作されている。

P’UNK〜EN〜CIEL
2004年から2011年にかけて活動していたL’Arc〜en〜Cielのカバーバンド。このバンドは、過去にL’Arc〜en〜Cielとして発表した楽曲をパンク・ロック、ハードロック、ヘヴィメタル調にアレンジしたうえで、パートを変えてセルフカバーするという企画モノで、音源はすべてL’Arc〜en〜Cielのシングルのカップリング曲として発表されていた。

作品

ライブ・コンサートツアー

  • 「映像化」の項目では、同じ放送局で再放送されたケースは記載しない。また、映像作品の再発盤についても記載しない

出演ライブイベント

記録

売上記録

受賞記録

タイアップ

  • *原則として、楽曲がシングルに収録されている場合は、収録シングルタイトルを記載する
  • *放送開始日・公開日などは、全て日本における日付を記載する
  • *が付与されているタイアップは、メンバー4人が出演したものを指す

出演

ラジオ

※レギュラー、パーソナリティ出演のみ記載

  • FM NACK5・MIDNIGHT ROCK CITY (1995年10月3日 – 1996年3月26日)
  • FM北海道・FM ROCK KIDS(1996年7月6日 – 1996年9月28日)
  • TBSラジオ・ボンジュール! L’Arc〜en〜Ciel(1996年10月7日 – 1997年3月11日)
  • ニッポン放送・L’Arc〜en〜Cielのオールナイトニッポン(1998年8月28日・2005年7月8日)
  • ニッポン放送・L’Arc〜en〜CielのOH! DAIBA TO BLUE(1998年10月5日 – 1999年6月26日)
  • TOKYO FM・やまだひさしのラジアンリミテッド内のコーナー「FLYING〜L’Arc〜ATTACK」(1999年10月4日 – 2002年3月28日)

テレビ

CM出演

  • NTTパーソナル関西(1998年)
  • サントリー・BOSS(1998年)
  • キヤノン・WonderBJ(1999年 – 2000年)
  • ペプシコーラ・PEPSI NEX(2010年)
  • ソニー・ハイレゾ級ワイヤレス MDR-1000X(2016年)

NHK紅白歌合戦出場歴

※出演順は「出演順/出場者数」で表す

脚注

注釈

出典

参考文献

関連項目

  • P’UNK〜EN〜CIEL
  • 日本のバンド一覧
  • ポピュラー音楽の音楽家一覧 (日本・グループ)

外部リンク

  • L’Arc-en-Ciel Official Web Site
  • L’Arc-en-Ciel/LArcom.net


【94年】あの人もカバー!?L'Arc~en~Ciel(ラルクアンシエル)デビューシングル「Blurry Eyes」をふりかえる

【94年】あの人もカバー!?L’Arc~en~Ciel(ラルクアンシエル)デビューシングル「Blurry Eyes」をふりかえる


L'Arc~en~Cielのシングル&アルバム作品など全曲解禁!「winter fall」「DIVE TO BLUE」「HONEY」などの人気

L’Arc~en~Cielのシングル&アルバム作品など全曲解禁!「winter fall」「DIVE TO BLUE」「HONEY」などの人気


Yahoo!オークション Ω ラルクアンシエル L'Arc~en~Ciel 12曲入 CD...

Yahoo!オークション Ω ラルクアンシエル L’Arc~en~Ciel 12曲入 CD…


339. L'Arc〜en〜Ciel ラルク アン シエル YouTube

339. L’Arc〜en〜Ciel ラルク アン シエル YouTube


L'Arc~en~Ciel(ラルク アン シエル)の徹底解説まとめ RENOTE [リノート]

L’Arc~en~Ciel(ラルク アン シエル)の徹底解説まとめ RENOTE [リノート]


L'Arc~en~Ciel “hyde 作曲” ランキング~好きな曲ベスト5!ラルクの魅力を再発見!(hyde誕生祭特別企画)【名盤ラジオ

L’Arc~en~Ciel “hyde 作曲” ランキング~好きな曲ベスト5!ラルクの魅力を再発見!(hyde誕生祭特別企画)【名盤ラジオ


【おすすめ】L'Arc〜en〜Ciel(ラルクアンシエル)オレ的名曲・神曲ランキングTOP50 同じ穴の貉 たゆすとのゲーム・アニメブログ

【おすすめ】L’Arc〜en〜Ciel(ラルクアンシエル)オレ的名曲・神曲ランキングTOP50 同じ穴の貉 たゆすとのゲーム・アニメブログ


ラルク・アン・シエル25周年ライブで23曲披露 音楽 日刊スポーツ

ラルク・アン・シエル25周年ライブで23曲披露 音楽 日刊スポーツ


ラルクアンシエル L'Arc〜en〜Ciel アルバム3枚の通販 by すーさん's shop

ラルクアンシエル L’Arc〜en〜Ciel アルバム3枚の通販 by すーさん’s shop お知らせ参照|ラクマ


【L'Arc en Ciel】人気曲メドレー 作業用

【L’Arc en Ciel】人気曲メドレー 作業用


L'Arc〜en〜Ciel(ラルクアンシエル)のアルバムをおすすめするなら、この順番です! ラルク曲三昧

L’Arc〜en〜Ciel(ラルクアンシエル)のアルバムをおすすめするなら、この順番です! ラルク曲三昧


ラルクアンシエル メンバー紹介, ラルク メンバー プロフィール AFOEJG

ラルクアンシエル メンバー紹介, ラルク メンバー プロフィール AFOEJG


ラルク アン シエル 人気曲 ヒットメドレー♥♥ ラルク

ラルク アン シエル 人気曲 ヒットメドレー♥♥ ラルク アン シエル スーパーフライ♥♥ L’Arc En Ciel Best Songs


L'Arc~en~Ciel、アルバムリマスターBOXをリリース “にゃー写”を公開&にゃるくが出演するMusic Clipの公開も予定

L’Arc~en~Ciel、アルバムリマスターBOXをリリース “にゃー写”を公開&にゃるくが出演するMusic Clipの公開も予定


L'Arc〜en〜Ciel

L’Arc〜en〜Ciel


L'Arc en Ciel メドレー ♥♥ ラルク

L’Arc en Ciel メドレー ♥♥ ラルク アン シエル 人気曲 ヒットメドレー♥♥ ラルク アン シエル スーパーフライ♥♥


ラルクアンシエルのUSJライブ、WOWOWで放送 Lmaga.jp

ラルクアンシエルのUSJライブ、WOWOWで放送 Lmaga.jp


L’Arc~en~Ciel、『L’Arc~en~Ciel 30th L’Anniversary』Prime Video独占配信決定 THE

L’Arc~en~Ciel、『L’Arc~en~Ciel 30th L’Anniversary』Prime Video独占配信決定 THE


L'Arc~en~Ciel ニューシングル『FOREVER』2021年9月29日(水)発売ジャパニーズポップス

L’Arc~en~Ciel ニューシングル『FOREVER』2021年9月29日(水)発売ジャパニーズポップス


L'Arc〜en〜Ciel(ラルクアンシエル)のアルバムをおすすめするなら、この順番です! ラルク曲三昧

L’Arc〜en〜Ciel(ラルクアンシエル)のアルバムをおすすめするなら、この順番です! ラルク曲三昧

L’Arc-en-Ciel(ラルクアンシエル)の画像、写真、ニュース情報。1991年にtetsuya(B)を中心に大阪で結成。インディーズシーンで絶大な人気を得て.. ラルクの音源化された全曲の一覧です。 hydeless versionなどバージョン違いの曲も入ってます。 単純にアルファベット順にソートしただけなので見にくいと思います。